松原誠一郎「経営革命の構造」(5)
第3節 産業革命期の企業家像
1780年代になると繊維産業の機械化と蒸気機関の開発が進展し、大量生産の事業をもたらすようになった。市民革命を経て豊かになった市民たちの需要と、機械を作る機械としての工作機械の進展、アークライトやクロムプトンたちによって開発。改良された自動機械、そしてそれらを相互に結び付けていく蒸気機械の発明が、相乗的に爆発的な市場を出現させた。さくに繊維工業は製鉄業や金属加工と違って、初めに大規模な投下資本を必要としないだけに、新しい事業として大きなチャンスを意味した。
例えば、1810年代1000人の従業員を擁する大紡績工場を経営していた、ジェームス・マコウネンとジョン・ケネディは徒弟から身を起こした。間後年は機械製作の修行を積み綿糸商人に雇用され、機械の知識に加えて、紡績業の知識をそこで学び2台の紡績機を手に独立した。ジョン・ケネディは機械製作を学んだ技能者で1791年に二人はパートナーシップを結び、出資者を得た。当時のケネディは、自分の親方がもとは一介の労働者であった事実に、「自分もいずれは親方になれるのではないかという勇気を与えてくれた」と述べている。中世を通じて支配的であった階級社会が市民革命を通じて崩壊しただけなく技術を利用して社会的上昇を遂げるチャンスが新たな産業の興隆とともに拡大していた。それまでの産業構造が変わり、新たな革命が始まろうとするとき、従来の精神世界の秩序崩壊は常に大きな勇気をもたらす。誰もが企業家となれる夢を持てる時代だったと言える。
彼らの事業が業績を伸ばしたのは、他社とは異なる成長戦略を採っていることも見逃してはならない。彼らが機械製造とくに紡績機械の製造・修理から事業を始めた。彼らは紡績機械を製造したり修理する傍らで、自らも紡績業に携わっていった。その過程で、彼らは番手数の多い糸、すなわち細い糸を製造する機械の製作が難しいことを実感していた。確かに、繊細な糸を自動機械で紡ぎ出すのは機械製作上、より複雑で繊細な技術を要求した。一方、紡績業者の競争は番手の低い糸すなわち太い糸ほど厳しく、高番手の糸ほど競争者が少ないことも機械修理から理解していた。従って、彼らは、ごく初期の段階から高番手の生産が行われた。彼らの競争優位は、機械製作と紡織業を兼営することによって、早い段階から利益率が高く競争の少ない高番手生産に特化したことにあった。
こうした高番手の専業化に加えて彼らの競争力を決定づけたのは、当時やっと市場に現われた全く新しいイノベーションである蒸気機関を積極的に導入したことにあった。二人はミュール機製造を行ううちに、ミュールの効率性を上げるのはいかに1台のミュールから多くの錘数を稼働させるかということに気づいた。錘数を増やすということは、人力では追いつかない労働力を前提に操業するということを意味する。しかし、そのことがすぐに蒸気機関の採用に結びついたわけではない。安定した水力が得られるのであれば、かれらは水力も同様に評価している。その点では、極めて現実的である。但し、錘数が多い機械はそれだけ複雑になり、熟練工を必要としたことが水力利用の障害となった。複雑な機械を操作できる熟練工は都市に集中しており、都市部ではもはや安定した水力を確保することが難しくなっていた。こうしたことを前提にすると、紡績業における蒸気機関の利用は彼らにとって必然的でさえあった。
以上見てきたように、初期における彼らの競争力は、情報結節点に立つ技術者としてのものであった。しかし、彼らがイギリス最大の紡績業者として名を残すのは、技術情報の背後にある産業革命の本質を素早く見抜き、それを体現したからに他ならない。1800年ごろに、彼らは大きな方針転換を図ったと考えられる。それは、少量で比較的高価な機械生産よりも、安くて大量の綿糸を大規模経営で生産することへの転換であった。有能な機械製作者であった彼らであれば、熟練を要する機械製作によって十分な利益を上げて行くことは可能であった。しかし、彼らは動力を利用した機械制工業がもたらすものは、そうした少量生産は比較にならないものだとこの段階で理解した。動力に基づく産業革命はこれまでの延長線上ではない、まったく新しいビジネス・モデルを彼らにイメージさせた。それは集中的な動力を一か所に用いて大規模経営をはかるとてつもない優位性であった。
彼らの競争力は、その後のマーケティング戦略の展開にもあったと言われる。かれらのマーケティング戦略を規定したのは、為替による信用取引と紡績業の景気変動=ビジネスサイクルであった。産業革命による近代資本主義の成立指標の一つに、ビジネス・サイクルすなわち景気循環の始まりを上げる場合がある。機械制大量生産によって過剰生産、物価下落、信用収縮といった恐慌が起こって初めて産業革命による資本主義が成立したという議論である。イギリスでは機械制工場生産が拡大するにしたがってビジネス・サイクルが発生し、1810年の恐慌を始まりに紡績業界は定期的な恐慌に見舞われるようになっていた。このビジネス・サイクルが為替利用をいっそうリスクの高いものとした。為替をロンドンの割引業者に落とさせるまでの間に、卸売業者・小売業者が倒産してしまうということがしばしば起こった。しかも、このビジネス・サイクル自身が価格差を狙った投機や投げ売りを呼び、いっそう需要の上下動を大きくした。こうした状況で安定した取引を行うには、販売業者を組織化し、不必要なリスクを抑えるとともに、当期が起こりにくい為替の条件等を整備する必要があった。彼らが採用したのは、各主要マーケットに専属の代理店を組織化し、リスクを伴わない現金取引ではある程度の手数料は認めたが、リスクはすべて代理店が負うというものであった。一手販売権を与えた少数の代理店に販売組織を絞っていくということは、彼らのような高級製品に特化した大メーカーにとっては重要な戦略であった。当時の需給バランスは崩れやすく、多くの代理店をかかえると市況によっては投げ売りに走りやすいため、価格維持が難しかった。少数の代理店であれば、価格の崩壊が始まる初期の段階で資金回収がしやすく、リスクを蔓延させることもない。ハイエンド機を量産し、しかもプライス・リーダーであり続けるためには、販売代理店のしっかりした管理が大切だったのである。
産業革命期の企業の経営形態について、19世紀に入ってイギリスは世界の工場として資本主義をリードしていく。その中心は、ロンドンのシティーであり、マンチェスターの綿工業である。とくに生産力の源はまさに動力と結びついた機械制工場生産となった綿工業であった。当時のイギリスでは企業規模を拡大するということは、一つの工場の機械化をいっそう進展させたり、購買部門や販売部門に進出するといった垂直的な統合よりも、いくつもの工場を横に保有したり一手販売業者を組織するなどといった水平的な拡大であった。垂直的な拡大すなわち何万人規模の企業家税率するには、経営組織に関する新たな改革が必要であり、それは次なる「アメリカの時代」を待たねばならなかった。
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