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2011年10月26日 (水)

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(2)

序章 殲滅戦争と消耗戦層

殲滅戦力戦争と消耗戦略戦争という概念を日本の近代戦争史当てはめてみると、日本は絶えず殲滅戦略戦争を繰り返し、消耗戦略戦争の経験が極めて乏しかったことに気づく。近代最初の対外戦争である日清戦争は、日本軍と清国軍閥軍との主力どうしの衝突による短期殲滅戦争だった。10年後の日露戦争も、陸にあっては遠く満州の平原でロシア軍を迎撃してこれを撃滅し、海にあってはバルチック艦隊を補足殲滅する殲滅戦略戦争であった。世界の趨勢を見れば第一次世界大戦が殲滅戦略戦争から消耗戦略戦争への転換点だったと言われるが、そのとき日本は極東の片隅にあって、本格的な戦争には関わることなく終わっている。つまりは本場の消耗戦略戦争を経験せずに過ごしてしまったのである。満州事変にしても殲滅戦略戦争の典型とも言えるものであった。こうして近代の日本軍は殲滅戦略戦争のみを繰り返し。消耗戦略戦争に関しては未体験のまま、日中戦争を迎えることになる。当時、日本軍首脳の過半は、日中戦争を満州事変同様、数カ月で終了する殲滅戦略戦争と位置付けていたふしがある。しかし、殲滅戦略が唯一の戦争の手段ではないということに気づくのに、日中戦争勃発からさほどの時間を要しなかった。

だが、日本軍とて、もっと早く気付くチャンスがなかったわけではない。一つの機会は日露戦争であった。この戦争は、「消耗戦略戦争の典型」と称された第一次世界大戦の予兆を様々な意味で現していたからである。例えば陸戦では戦線が膠着・長期化し、海戦では大艦どうしの砲撃戦が展開されるなど第一次世界大戦の戦闘の先駆けのようなものが既に現われていた。さらに大きな意味を持つのは、国家総動員体制が不完全ながら準備され、産業や思想の統制と動員が重視されたこと、戦争展開から終結まで外交交渉が大きな比重を占めるようになったことである。「国家総動員体制」をどう定義するかはいろいろ議論があろうが、単純に国家の総力を政争に動員する制度や仕組みと考えるなら、日露戦争は、日本の国家総力を挙げた戦争の最初の体験だったといってよい。そして。工業力が未熟ながらもそれなりに全力を傾けた日本と、革命の危機に脅かされたロシアと差が、この政争の勝敗を分けたのである。この戦争を日本軍首脳部は殲滅戦略戦争の一類型として絶対化していった。

消耗戦略戦争では、軍備や産業に裏付けられた武力よりも、政治や外交、さらには国際世論の支持を集めるための国家の文化的魅力がものを言う、殲滅戦略戦争でも、布施力のみならず政治力や外交力が必要になるが、そのウェイトは消耗戦略戦争の比ではない。作戦を決定し推進する場合でも。殲滅戦略戦争であれば軍事・産業動員を集中して武力で敵の主力を包囲戦殲滅すれば事はすむが、消耗戦略戦争となれば、戦争が長期化し泥沼化するなかで外交交渉やメディアをも活用した宣伝戦で如何に有利に和平を勝ち取るかを第一に考慮した作戦を考えなければならない。しかも、ただ目先の有利さを求めるのではなく、世界のなかで自国の位置づけと役割、そして具体的な国家の将来像をふまえた戦争終結のあり方を追求しなければならない。その課題実現のためには何を取、何を捨てるのかを見極め、どのような手段と方法を選択すべきかを厳しく計算しなくてはならないのである。

しかし、日本の政治世界にも軍の世界にも、そうした長期的展望を持った消耗戦略型指導者はついぞ現われなかった。

その理由は、日本が置かれていた地理的・歴史的特性に由来する。明治以降の日本の近代とは、絶えずその時の超大国と連合し、日の庇護の下で世界情勢の変化も利用しながらアジアで国益の伸長を図るという歴史であった。したがって満州事変以前の、日清・日露戦争に始まる日本の戦争はたえず東アジアの一部で局地的に行われ、期間も足かけ2年、ロシア革命直後のシベリア出兵でも4年と短期間で終了していた。講和も超大国の調停を得て、その塩飽の範囲内で行われた。つまり、日本は、独力で長期間にわたって戦うという準備も経験もついぞ持たないまま、日中戦争を迎えたのであった。

たしかに日中戦争は、1937年から45年までの8年間も戦いが継続されたという意味では、まぎれもなく長期戦である。しかしその内実は、日本が鮮明戦略戦争を意図したにもかかわらず、国民政府主席の蒋介石の巧みな戦略によってそれが頓挫し、不本意ながら長期の消耗戦略戦争に引きずり込まれていったのであった。

考えてみれば、外交などを駆使した長期的・大局的な国家政略は英米など超大国に委ね、みずからはその僕として短期的・局所的な勝利の追求を国策とする明治以来のこのような日本の体質は、かたちを変えて戦後も立派に引き継がれている。ハードパワーの両翼のうち軍事という翼はもぎ取られたものの、もう片方の産業という一翼を異様に突出させて、超大国アメリカの僕としてこれに依存しつつ、自国の経済発展を追求したのである。これは手段こそ変わってはいるものの、殲滅戦略戦争の再現にほかなになかった。

21世紀に入ると、状況は大きく変化してきている。悠久の歴史に培われた独自の外交力、文化力を磨き続けて世界に冠たるソフトパワー大国となっただけでなく、現在は軍事、産業等のハードパワーも急速に強化している中国の台頭である。近代アジア史上ではじめて、ソフト、ハードの両パワーを備えた超大国が出現する可能性が高くなってきたのである。これまで、アメリカという超大国とつながってアジアでの覇権を追求してきた日本は今、アジア自体の中に超大国が生まれた時に、これとどう付き合うかという課題を突き付けられている。大きな路線選択を迫られているという意味では、現在の日本は百年以上前の日清戦争前夜と同様の状況にあると言っても過言ではない。今後、我々はどう生きるべきかを考える前提としても、70年前の日本が日中戦争を通じて経験した殲滅戦略戦争の破綻と、消耗戦略戦争と化したこの戦争の本質を見ていくことの意義は大きい。

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