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2011年10月26日 (水)

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(3)

第1章 開戦への歩み

1931年の満州事変に関して留意すべきことが三つある。一つは、満州事変は日本にとって、英米などの峡谷の事前諒解なくして大規模な領土拡張戦争を開始した最初のケースだということである。近代以降の日本は日清・日露戦争から第一次世界大戦に至るまで、戦争開始前に英米などの国際的承認を取り付けてから作戦を開始していた。ところが、満州事変ではそうした手続きを無視したのである。そのため諸外国との間に軋轢が生ずるのだが、関東軍はそれを強引に押し切り、日本政府もまた関東軍の行動を事実上黙認した。この成功は、軍の中外交軽視の風潮を作り出すことになり、ひいては日本の外交力衰退を招く結果となった。したがって外交力を持った敵にはその弱点を徹底的に衝かれることとなっていく。二つ目は、関東軍と比較して奉天軍閥の軍事力は圧倒的だったにもかかわらず、関東軍が短期間に満州を制圧できたことである。蒋介石率いる中国中央軍と比較しても遜色のない奉天軍をわずかな兵力で打ち破ったこの成功は、「寡よく衆を制する」という譬えに似せて、作戦を巧みに展開すれば数倍あるいは数十倍の中国軍でも撃破できるという根拠のない確信を生むこととなる。のちの日中戦争では日本軍は自軍の数十倍の、しかも会戦のたびごとに近代化され洗練されていく中国中央軍と対峙することになるが、その際もこの満州事変における成功を絶対視したため、手痛い敗北を喫することとなるのである。三つ目は、満州国において関東軍が、これまで朝鮮や台湾で行ってきた総督による直接軍政という統治形態を放棄し、実態はともかくとして溥儀を湿性に据えた独立国という形態をとったことである。満州事変が起こると奉天軍閥傘下の領将が張学良のもとを去り関東軍側加担するものが現れた。彼らの協力があって満州国はスタートできたわけである。しかし、彼らが協力的だった理由は、日露戦争から満州で培ってきた日本軍と中国人指導者との深い交流にあったのだ。にもかかわらず日本軍は、この満州での経験を絶対化して中国人をいつでも利用できると信じ、華北・華中でも同様の政権ができると思いこんだ。この確信は、日中戦争で厳しいしっぺ返しにあうことになる。満州事変から満州国の建設までのプロセスを見ればたしかに、中国はすべて関東軍の意のままにできるかにも思えた。しかし、これらの成功体験が過信を生み、その後、大きな誤算となって関東軍の前途に立ちはたがって来る。

満州事変は満州国の成立でひとまず終結する。それからしばらくの間は日中関係に小康状態が現れる。蒋介石は中国共産党との戦いに忙殺され、対日摩擦を回避するため関東軍の要求を甘受していたためである。しかし、1935年国民政府は幣制改革を実行し、軍閥や外国銀行の通貨の流通を禁止し、国民政府が定めた法幣を正式の通貨として流通させるという改革である。これには英米の支援があったが、中国の政治経済の統一を急速に推し進めることができた。これにより外貨は閉め出されることとなり、日本軍の華北への進出は一頓挫を余儀なくされる。それでも、日本は華北進出に執着し露骨な分離工作を続けるが、当地の実力者は曖昧な態度を取り続け、決して日本に積極的に協力することはなかった。このことは表面的に両国を覆っていた友好ムードに水を差し、中国では次第に民衆レベルでの抗日感情の高まりを見せ始める。

1937年盧溝橋事件により両国は戦闘状態に入る。

蒋介石は、開戦直後の8月21日に「中ソ相互不可侵条約」を締結し、また英米各国大使に外交戦を展開することを指示した。日本軍の主流をなす殲滅戦略構想に対して、彼が当初から消耗戦略思想で挑もうとしていた決意がうかがわれる。それは、外交力から文化的な厚みまでを駆使して国際的な支持を集めて、建軍途上の軍事力の整備に時間を稼ぎ、武力一辺倒の日本を時間をかけて孤立に追い込もうというスケールの大きな発想だったと思われる。日中の戦略の相違は、初発の段階からすでに現われていたのである。

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