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2011年10月18日 (火)

松原誠一郎「経営革命の構造」(12)

第4章 日本型組織革命の進展

第1節 高度経済成長と大型設備投資

戦後日本の経済復興あるいは高度経済成長に関する研究は数多くあり、傾斜生産方式に始まる政府の産業政策あるいはマクロ経済政策の妥当性を説くものから、年功序列賃金。終身雇用・企業内組合といった企業経営のミクロ的要因を強調するもの、あるいは戦時経済下での経済運営システムが花開いたという見方などさまざまな見解が存在する。強調しておきたいことは、戦前の経済と戦後の経済のあり方は目に見える形で大きな変化が生じていることである。輸出入のパターンで見ると、戦前の日本はGNPの約20%を輸出または輸入し、これに依存していたことを示している。しかし、戦後の日本は輸入依存は10%前後で推移しており、驚異的な経済成長は輸入依存でない形で実現した。これは資源のない日本の事情を考えた時、不思議な数字であるが、この数字にこそ戦前と戦後を分かつ重要な意味を持っている。戦後日本経済の大躍進の背景には、鉄鋼業、造船業、電気機械工業、自動車工業等の高付加価値産業の著しい発展があった。

戦後の日本経済はまさに「なたもの」づくしであった。当時の日本縮小再生産の悪循環スパイラルに突入しつつあった。この危機的状況にあって、その脱出の糸口は「資源の一点集中全面展開」というセオリー通りの手法である。八方ふさがりの状況を打破する手立ては、全方位的な戦略展開を避けて、限りある資源を「勝てそうな」あるいは「勝たねばならない」分野に重点配分することである。具体的には、米国から重油の輸入を懇請した上で、そのすべてを鉄鋼業に集中投下し、そこで増産された鋼材をすべて石炭産業に回して石炭増産はかる。増産された石炭は再び鉄鋼業に投入して鋼材増産をはかり、それをまた石炭業に振り向けるというように、この二つの基幹産業を資源の傾斜配分によって再建し、その基幹産業が軌道に乗った段階で他産業を再建していくというものである。

傾斜生産方式採用の経緯で重要なことは、こうした一部集中的な政策を採るに当たって政府がその結果生じる不平等に対して責任を取ろうとしたことである。日本政府は当初日本経済の解体を目的としていたGHQに対して、鉄鋼業再建のために重油の輸入を懇請した。この時日本政府は、鉄鋼業に重点配炭をして犠牲になる企業が出ても救済せず、一時的に国民生活水準が低下してもそれを耐え忍ぶという強い決意をGHQに表明した上で、懇請したことである。この声明のもつ大きな意味は二つある。一つは日本が縮小再生産の道を不退転の決意で遮断し、そのためには一時的にでも国民に「耐え忍ぶ」ことを強制するという強固な意志をもって日本の復興が出発したことである。もう一つは、その基幹産業に鉄鋼業が選択されたことである。

日本の戦後発展とくに重化学工業部門のそれを鉄鋼業の驚異的発展抜きで考えることはできない。傾斜生産における石炭の増産、造船の競争力、家電から自動車に至る主要輸出製品、これらすべてが日本の鉄鋼製品の優れた品質と加工性に支えられていた。優れた日本の鉄鋼業が存在しなければ、造船業も自動車工業の発展もあり得なかったと言っても過言ではない。しかも、日本の鉄鋼業の発展は、産業が如何なる困難な時代にあっても企業家の信念に満ちた行動によってダイナミックに発展し得るという興味深い事例を提供している。

戦後日本の鉄鋼業の銑鋼一貫化と大型投資を考える上で、重要な出来事は二つある。一つが日本製鉄の分割てあり、より重要な他の一つが川崎製鉄の独立と一貫化への進出である。日本製鉄は1934年に官営八幡製鉄所と有力民間企業の合同によって成立した戦前日本最大の半官半民企業であり、GHQは日本の軍事力破壊と経済民主化を進める中で、財閥及び巨大軍需会社の解体を進め、1950年4月に八幡製鉄、富士製鉄、日鉄汽船、播磨耐火煉瓦の4社に分割された。一方、この分割とほぼ並行して川崎重工は、解体を免れたにもかかわらず、造船を中心とした重工部門と製鉄を中心とした製鉄部門との分割を敢えて選択し、1950年4月に川崎製鉄を誕生させた。これによって、戦後の日本には、八幡、富士、日本鋼管、住友金属、神戸製鋼そして川崎製鉄という6社の比較的大型の鉄鋼企業が登場した。

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