松原誠一郎「経営革命の構造」(11)
第3節 自動車産業の組織進展─フォードとGM
20世紀に入ると自動車が登場し、鉄道以上のインパクトをアメリカの社会経済に与えた。1925年には、自動車産業は、製品の価値、原材料、付加価値、賃金の支払いのすべてにおいて全産業の第一位となり、また鉄鋼やゴム、板ガラス等の最大の市場となった。自動車産業は流通や技術進歩にも様々な影響をおよぼした。
1908年にヘンリー・フォードが完成したT型フォードは、それまで金持ちの遊び道具であった自動車を、大衆の最も便利な輸送手段に変えてしまった。フォードが作り上げたのはT型フォードという車だけではない。その後、現在に至るまでの「自動車の時代」を創始し、ベルトコンベアーによって安価で良質品を大量生産する、いわゆる「アメリカン・システム」を創出したのである。ヘンリー・フォードは1863年ミシガン州の裕福な農家に生まれ、機械いじりが好きな少年だったとう。機械工として修業した後、1891年デトロイトで内燃機関に出会う。1899年にはデトロイト自動車会社の製造部門長となったが会社はあえなく倒産。技術的にもマーケティング的にもきわめて複雑な自動車を大量に生産販売するには、さらにいくつかのイノベーションと確固たるビジネス・モデルが必要だったということが言える。その後、フォードは自動車レースの世界に身を投じ、勝利を収める。フォードはアレックス・マルコムソンの出資を受けて本人にとって3社目のフォード・モーター会社を設立
、A型が好評で利益を1年目からあげた。しかし、フォードの大衆化路線はマルコムソンと対立し、会社を買い取ることとなる。その後N型を開発、互換性部品による大量生産方式をより洗練することによって、安くて丈夫で、より性能の高いT型を1908年に開発した。一方で、ジェームズ・カズンズによって、全国各地の支店にディーラーという新しい形の販売網を築いた。そりまで車を売っていた鍛冶屋や農機具販売者や自転車のディーラーの中から信用力があり、やる気にあふれた人間を見つけ出してフォード車のみを専属に扱うディーラー組織を作り上げた。この後、フォードの効率の良い生産を達成するため、生産車種をT型一本に絞り、生産における四つの原則で効率を追求するようになった。「人間を仕事のある場所に行かせる代わりに仕事を人間のいる場所にもってくること」「人間の腰から上で仕事をすすめること」「機械であれ人間であれ無駄な動きを最小化すること」「仕事はもっとも単純化したものに絞り込まれること」これがベルトコンベアーやロールウェイによる移送式組立ラインの発想である。彼の移送式組立ラインは熟練工でも非熟練肉体労働者でみない新しいタイプの労働者を生み出した。フォードは他の誰よりもこの種の労働者の確保と欲求に対して細心の注意を払った。そのもっとも有名なものは1914年の経営革新「5ドル日給」政策と1日8時間労働である。これにより、労働者を単なる労働者ではなく「自動車の購買層」に変えた。ここにフォードが大衆自動車ばかりでなく「大衆自動車の時代」を築いた人物と言われる理由がある。こうして、フォードがT型モデルを通じて20世紀に持ち込んだビジネス・モデルが完成した。安くて高品質な耐久消費財を大量に生産し、大量に販売する。そしてそれを購買するのは、まさにそれを作り出す労働者であった。このモデルは後に「フォーディズム」とまで呼ばれるようになり、効率的物質文明の代名詞となる一方で、物質至上主義、資本家対労働者の対立、労働者の非人間化など、今日にいたる基本的問題点を人類に持ち込んだ。
フォードが技術者から出発して、「できるだけ安い単一モデルをより多くの人に」という革命的考えで車に取り組んだのに対して、GMの創始者ウィリアム・デュラントは「より多くの人々に色々な種類の車を」という発想は当時はなかなか理解しにくい考えだったが、結局現在にいたる自動車業界の主流の考えになった。
デュラントは馬車の製造会社の経営から出発し、1904年にビュイック・モーター社の経営を引き継ぎ、経営を軌道に乗せると、ジェネラル・モーターズを設立し、オールズ社、オークランド社キャデラック社と立て続けに合併により巨大自動車帝国を築き始める。その後、デュポンの財政的後援を得て、シボレー社を買収し、その後も次々と買収を行い、巨大自動車帝国を建設した。しかし、第1次世界大戦後の不況は、相次ぐ合併で寄り合い所帯になっていたGMを直撃し、巨額の在庫を抱えて倒産の危機に見舞われた。その再建を任されたのが、アルフレッド・スローンであった。
スローンはGMが外部の経済不振とともに、内部の経営管理上で大きな欠陥を抱えており、急激に買収された事業が組織としての体裁をまったくなしていないこと、各事業部あるいは子会社が過度に分権的な状態に置かれていることを問題とし、ばらばらな組織を一つの統一された企業体へと編成し直すことを提案した。そして、投資収益率(ROI)をもとに分権的組織を管理する方法を作り上げた。スローンのもう一つの革新は組織と需要予測、生産、マーケティングを合致させたことである。自動車の需要には「需要のピラミッド」が存在し、それぞれの生産とマーケティングに対する計画的戦略が必要だということを明らかにした。これに応じたのが、すべての顧客セグメントに応じた商品を取りそろえるフルライン戦略であった。これによって、GMを世界最大の自動車企業に押し上げていった。
第2次世界大戦中から戦後にかけて技術が一層進歩すると、木々用は多角化の速度をさらに進めた。戦後アメリカ経済の伸びも企業活動に大きな与えた。広大な消費市場がつくりだされ、オートメーションの普及、コンピュータの発達、プスティックや合成繊維の出現は商品の幅を広げるとともに、生産と流通の速度を増加した。アメリカの大企業は戦後の製品の多角化に伴って製品別事業部制組織を採用し、世界を席巻した。また、多角化を進めた企業群は、複雑な組織管理のために一層の厳密な経営階層を構築し、俸給によるトップからローワーに至る管理の専門家を生み出していった。まさに、アメリカの黄金の時代であった。
しかし、アメリカの苦境は、1960年代に成熟期に入った産業に兆候が始まっていた。成熟産業では事業部制の変種である持ち株会社に類似したコングロマリットが登場した。コングロマリットとは財務や法律部門など現業とかかわりのない部門からなる小さな総合本社のもとに、非関連の企業を買収して傘下におさめた大企業である。コングロマリットにおける本社は成熟段階で成長率を高めるために多角化を進めたが、その経営方針は傘下企業の財務諸表を中心に資源配分や産業分野への進出撤退を決めるものであった。ここで確約したのは数学的分析能力の高いMBA出身者であり、買収に詳しい法律家である。彼らの財務諸表中心の企業経営あるいは企業買収は、技術革新や製品改善を進めることよりも、短期的な投下資本収益率を高めることに注がれ、結果として技術蓄積を弱めるとともに産業の空洞化の一因となった。こうした経営方針は、複数事業部制を採用した巨大企業においても次第に深刻な問題となった。現場を知らずに数字的判断に頼る総合本社と、新しい技術革新のために長期的な資本投下や技能訓練を必要とする事業部の間に、大きな乖離が生まれた。また、縦割り組織としての事業部制と全社的な判断の間に矛盾が生じ始めた。各事業部のセクショナリズムが強くなって全社的統一が難しくなったのである、こうした管理上の問題を解決するために、既存の事業部に戦略レベルでのマネージャーが重ねられた多元的なマトリックス組織や既存事業部を横断的に再組織する戦略的組織形成が出現した。しかし、アメリカ企業のダイナミズムは1980年代における大企業のスリム化、ベンチャー・ビジネスによる新規事業開発という産業主体の分業体制が整うまでは基本的には回復しなかった。
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