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2011年11月23日 (水)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(3)

第1章 聴くための場所

近代的なコンサート・ホールの設計には、その細部に至るまで、音楽の演奏、しかも特定のタイプの音楽の演奏に特化したデザインが採用されている。建築家も、建築家にデザインを委託する市民の代表者も、その大半が、そこで行われるシンフォニー・コンサートに参加するタイプの社会集団に属している。コンサート・ホールでの正しい振る舞いに精通したかれらが、その正しい行動を動機付けるようデザインに工夫を凝らすのは、当然のことだ。だが同時に、かれらは、自分たちの想定と異なる振る舞いの可能性の芽を、摘んでいるのだ。

この建築物に関する最も興味深い事柄はつぎの事実に尽きる。ミュージッキングには、これほどまでに壮麗な建物は必要ない、ということだ。たしかにかつてのヨーロッパで演奏が行われていた大聖堂や宮殿は、壮大かつ豪華絢爛だったかもしれない。しかし、これらの建物は音楽の演奏のためだけにあったわけではない。今日のコンサート・ホールが醸し出しているのは、それとは異なる種類の栄光だ。ホールで行われる演奏が、別の儀式や出来事に従属しているのではないということ、演奏と言う活動自体が社会的に重要なのだということを、誇示しているのである。コンサートというひとつの出来事を、演奏と社会的機能を全く持たずに、完全に音楽の演奏のみで成り立つべきだと考える理想を近代的呼ぶならば、その出来事を収容するべく建てられて、その理想を高らかに宣言している建築物もまた、近代の産物に違いない。巨大な特注品としてのコンサート・ホールは、それ自体が19世紀の発明である。

ホール正面の入り口は、圧倒的なまでに豪勢な造りで、この建物に足を踏み入れること自体が、貴重な体験なのだと感じさせられる。入り口からホールまでの間にロビーがあるが、ここは演奏のための空間ではなく、外側の日常世界から内側の演奏の世界に進むための、移行の空間なのだ。単なる移行空間に過ぎないはずのロビーがどうしてここまで巨大で荘重なのか、初めは分らないかもしれない。シンフォニー・コンサートの場合と言う儀式の場合、社交することと演奏を聴くことが完全に切り離されていて、それぞれに別々の場所が用意されている、ロビーはその社交の場として機能している。さらに、ロビーで一息つくことには、我々がこの場にいかに相応しいかということを自分に向けで納得させる、という意味もある。

ロビーへの入場が感動的だとするなら、見事としか言いようのない聴衆席への入場はドラマティックですらある。キラキラした照明がついた高い天井。通路で仕切られた座席の列は緩やかな階段状にせりあがって、その上にバルコニーにも座席が並んでいる。すべての座席が同じ方向を向いていて、その床の傾斜の先に舞台がある。舞台の上にも段があって、そこにある椅子も聴衆の方を、より正しくは舞台中央にある小さな演壇の方を、向いている。演壇の向こう側にある腰の高さほどの机の上には、今夜の最初の曲の総譜が置かれていて、そこに書いてある音楽を演奏する指揮者と演奏家を待っているこの演壇と机こそがこの広い空間の焦点なのだ。

席に客がいっぱいに座れば、演奏中はあちこち動き回ったりせずに、席に着いていなければならない。座席は全て同じ方向を向いているので、話ができるとしても、両隣とせいぜい前後の人といったところ。そう、ロビーが社交の場だとすれば、ここは厳密に観て、聴いて、注意を向ける場所というわけだ。聴衆席というくらいだから、ここは何をおいても、まさに聴くための場所なのだ。事実ここでは、「演奏」は聴くためだけに行われるものと想定されている。近代的なコンサート・ホールは、音楽のパフォーマンスと言うものが一方向のコミュニケーション・システム、つまり作曲家が演奏家を介して聴き手へと伝えられるコミュニケーション、だという想定のもとに建てられている。だから聴衆席は、演奏される音が可能な限り力強く、かつ明瞭に聴き取られるようにデザインされている。すべての配慮が、音の広がり方と聴こえ方のために傾注されている。音楽を聴いている最中、聴衆が別の聴衆に邪魔されないようにするためにも、特別の注意が払われている。聴衆席が傾斜しているは視界に邪魔されないためだし、聴衆の方でも自分たちが着席して静かにしているべきだということを重々承知している。聴衆席は、人々が互いにコミュニケートしにくいようにデザインされているだけではない。聴衆は、ここがもっぱら聴くための場所であって、口答えをするための場所ではないことを、いわば教えられている。演奏だけがただじっと凝視されるスペクタクルなのであって、聴衆はその成り行きに何の貢献もできない。ホールはまた、演奏家と聴き手を堂々と接触させないようにも、デザインされている。実際、ホールは両者を明らかに隔離している。コンサート・ホールが決して出会うことのない二つの集団を収容する場所だということだ。コンサート・ホールの建設技術は音の響きの上で透明性を獲得したが、その透明性は社交性の犠牲のうえに、成り立っているのだ。何を得るにも代償がある、それが技術と言うものである。そして現代のクラシック音楽文化は、この達成には犠牲を払うだけの価値があったと感じているらしい。この巨大な建築物は、次のような特定タイプの関係を劇的に示している。すなわち、まず人々を日常生活から切り離してホールの中に隔離し、次に一部の人々を一つの集団にまとめ上げ、その他の人々を各々孤立させたままにする。そして、全社に支配的な身分を、後者には従属的な身分を割り振る。そうして、一方向のコミュニケーションを促進するのである。この関係は天与のものではないが、かといってそれを生み出した当の人間にもはっきりとは意識されていない。しかし、私の考えでは、この場こそ、そこに参加する人々が抱く理想的な人間同士の関係のモデルが示されている。もちろん、コンサート・ホールという建築物によって具現化される関係は、そこで行われる出来事の意味のすべてではなく、パフォーマンスというとてつもなく複雑な関係の網目の一筋に過ぎない。しかしコンサート・ホールと言う建物自体が、音楽パフォーマンスの場で生み出しうる関係に、箍をはめているのだ。

著者は18世紀ロンドンのプレジャー・ガーデンと比較している。ここでは大広間のようなところで壁の一か所だけがオーケストラ用の天蓋付ステージが取り付けられている。そこでの人々は現代の聴衆のように大人しく座ってはいないで、歩き回ったり、何人かで集まって話したり、単に部屋を横切ったりしている。この建物は、現代のホールのように、社交の空間と音楽を楽しむ空間を分けて隔てていないで、聴衆の方も社交と音楽を聴くことの両方を、同時にこなしている。いかに人々がここで寛いでいたかが分る。そこで奏でられていた音のパターンは、我々が今日のコンサートやレコードで聴くものとほとんど同じはずだ。しかし、経験として何かが違う。良いか悪いかは別として、違うのだ。彼らは自分たちの好きなように演奏を受け取ったし、我々は我々の好きなように演奏を受け取っている。どんな建物とも同じように、コンサート・ホールも社交的な構築物である。社会的存在として望ましいとされる人間行動とその関係の想定のもと、デザインされ建設されている。そうした前提の数々は、ホールと言う特定の建築物で行われることだけに影響を与えるのではない。人間同士の関係され自体の本質にまで、影響を与えるのだ。

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