瀧本哲史「僕は君たちに武器を配りたい」(1)
第1章 勉強できてもコモディテイ
医師、弁護士、公認会計士といったような高学歴の・高スキルの人材が、世界中の先進国でニートやワーキングプアになってしまう潮流押し寄せている。これまで、大学が伝統的に提供してきた、「知識をたくさん頭脳につめこんで専門家になれば、良い会社に入れて良い生活を送ることが可能となり、それで一生が安泰に過ごせる」というストーリーが世界規模で急激に崩れ去っている。
しかし、最近の日本では「勉強して努力すれば必ず幸せになれる」という考え方がメディア等で盛んに流布されている。自己啓発書が相次いで出版され、朝活などというものが盛んに開かれている。そうした努力神話を信じて、英語やITや会計を勉強した人のうち、実際に年収が増えた人はほとんどいない。これは、学歴信仰が壊れ、経済のグローバル化が急ピッチで進み、日本人同士のみならず外国人との間でも職の奪い合い始まっている今日の日本は、明治維新以来の不安定な時代となっている。そういう時代だからこそ、ますます安定した道を求める真理も昂じて、「資格を取れば安心できる」とか勉強しなくてはならないといったストーリーに乗ることを欲したのだろう。それに乗じたかたちで勉強ブームといえる現象が起きていると言える。
いまの世の中、つまり高度に発達した資本主義の下では、必死に勉強して「高度なスキル」を身につけてもワーキングプアになってしまう。それは、かつて高収入を得られた付加価値の高い職業が、もはや付加価値のない職業へと変わりつつあることに起因している。弁護士にしても、英会話が堪能にしても、MBA取得でも、需要と供給のバランスが崩れ、スキルや資格を持った者が余っている状態になってしまっている。
こうした急激な社会変化が、あらゆるところで起こっているのが現代の社会である。今まで、うまくいっていたやり方が通用しなくなり、これまでと同じ方向性で頑張っても、豊かな生活を営むのは難しくなってしまった。物心両面ともに幸福で充実した人生を過ごすには、これまでとはまったく違う要素が必要なのではないか。そのことにみな気づき始めているのだが、かといってどうすればいいのか分らない。それが今の時代を覆っている閉塞感の大きな一因だと私は考えている。留めることができない変化は、一部の例外を除いて、どんどん賃金の最低金額が下がっていく、ということだ。
ここで「コモディテイ」という概念が紹介される。市場に回っている商品が、個性を失ってしまい、消費者にとってみればどのメーカーのどの商品を買っても大差がない状態。それを「コモディテイ化」と呼ぶ。経済学の定義によれば、コモディテイとはスペックが明確に定義できるもののことを指す。材質、重さ、大きさ、数量など、数値や言葉ではっきりと定義できるものは、すべてコモディテイだ。つまり、個性のないものはすべてコモディテイなのである。
一定のレベルを満たしていれば、製品の品質は関係ない。例えば、日本の自動車部品メーカーが作る製品の質は、非常に高いレベルにある。しかし、グローバル化して少しでも安い部品を調達したい自動車会社から見れば一定のスペックを満たしていれば、それらの部品はすべて同じだと判断される。だとすれば、少しでも価格の安い方から買いたい。だから、今の自動車業界、とくに部品を供給するビジネスは、どれほど品質が高くても買い叩かれる構造となっている。コモディテイ化した市場で商売をすることの最大の弊害は徹底的に買い叩かれるにある。
さて、ここで著者は主張する。コモディテイ化するのは商品だけでなく、労働市場における人材の評価においても、同じことが起きている。これまでの人材マーケットでは、資格とかTOEICの点数といった、客観的に数値で測定できる指標が重視されてきた。だが、そうした数値は、極端に言えば工業製品のスペックと何ら変わりがない。同じ数値であれば、企業側は安く使える方を採用するにきまっている。TOEIC900点以上ならだれでも同じということになっている。だから、コモディテイ化した人材市場でも、応募者の間で、どれだけ安い給料で働けるかという給料の値下げ競争が始まる。こうしたコモディテイ化の潮流が、世界中のあらゆる産業で同時に進行している。その流れから逃れることは、現代社会に生きる限り、誰にもできない。これからの時代、すべての企業、個人にとって重要なのは、コモディテイにならないようにすることなのだ。
労働者の給料がどんどん安くなってきているもう一つの大きな理由は、最低賃金の募集でも喜んで働く人がどんどん増えているということだ。このように、これからの日本では、単なる炉動力として働く限り、コモディテイ化することは避けられない。
それでは、どうすればコモディテイ化の潮流から、逃れることができるのだろうか。人より勉強するとか、スキルや資格を身につけると言った努力は意味をなさない。答えは、スペシャリティになることだ。スベャリティとは、要するに「他の人には代えられない唯一の人物(とその仕事)」のことである。あらゆる業界、あらゆる商品、あらゆる働き方においてスペシャリティは存在する。しかし、その地位は決して永続的なものではない。ある時期にスペシャリティであったとしても、時間の経過に伴い必ずその価値は減じていき、コモディテイへと転落していく。スペシャリティになるために必要なのは、これまでの枠組みの中で努力するのではなく、まず最初に資本主義の仕組みをよく理解して、どんな要素がコモディティとスペシャリティを分けるのか、それを熟知することだ。
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