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2011年11月21日 (月)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(1)

516hvrndcrl__ss500_ 多種多様な状況と行為、それに音を有意義に組織させる様々なやり方の全てが、音楽と名付けられている。世界中の人々が満足感を覚え、人生、お金、時間をこれほどまでにつぎ込んでいる音楽とは、一体何なのだろうか?この問いは「音楽の意味とは何か?」と「人間の生における音楽の機能とは何か?」という問いに集約されるが、満足な答えが得られたためしがない。それは、この問いそのものが間違っているからだ。

音楽とはモノではなく人が行う何ものか、すなわち活動なのだ。一見疑いなくそこにあるように見える「音楽」という概念は実は作り物であって、これは音楽を生み出すあらゆる活動や行為の抽象概念でしかない。その証拠に、抽象概念としての「音楽」にじっと自ら目を凝らしてみると、そこにあったはずのリアリティはすぐさま消えてなくなってしまうだろう。もし音楽というモノがないなら、「音楽の意味とは何か?」という問いに答えなどあるわけがない。

西洋音楽を研究する学者たちは、このことを直感的に理解していたらしい、しかし彼らは音楽と呼ぶ行為とその意味に注意を払うのではなく、その部分を静かに削除して、「西洋的伝統の音楽作品群」に音楽の意味をあてがってしまった。これなら少なくとも、実際に抽象概念としての「音楽」があるように見える。そもそも西洋クラシック音楽だけを他の音楽から区別して特権化するのは、甚だ奇怪で矛盾した現象だ。「音楽」という使われ方でも、大学の音楽学部や新聞の音楽批評では、じっさいにそれはクラシック音楽のことを言っている。音楽学者にも様々な意見や立場の違いがあるに決まっているのだが、次のただ一点に関しては、おおよそ議論と疑問の余地のない満場一致が得られるだろう。それは、音楽の本質及びその考え得るあらゆる意味は、音楽作品(「西洋クラシック音楽」の作品を指す)と呼ばれるモノの中に見出されるということだ。音楽作品の「モノ性」の仮定は、当然のことながら、芸術一般における近代哲学の偏見のごく一部に過ぎない。価値があるのは創り上げられた対象それ自体であって、芸術の行為や創造の行為に価値が見出されることはなく、芸術を知覚し芸術に何らかの反応を示すという行為はなおさら無意味と思われている。つまり、「芸術に何らかの意味があるとして、それを知覚する者の意見など関係ない。その意味は全て対象の中に独立して存在する」というわけだ。意味は、さきに作品が生み出されてからこのかたすっと変わらずそこにあって、あたかも理想的な受け手の出現によって発見されるのを待っているかのようである。ここで前提とされているのが、絵画や文学そして彫刻が持っている意味が、不変かつ内在的だというものである。

音楽の意味は、対象化された音楽の中だけに存在する、というこの前提からもいくつかの命題を見出すことができる。

第一の命題は、音楽パフォーマンスとは、孤立して自己充足的な作品が聴き手というゴールに到達するための単なるは媒介でしかなく、創造的な過程に何の寄与もしない、というものだ。音楽に関する文献がパフォーマンスをほとんど扱わないこと、あったとしてもせいぜい作曲家が残したものを従順に音に実現すべき、という限定的意見しかないことからして、この命題が演奏家などの媒介者を、透明であればある程良いと結論付けていると、考えるほかない。さらには、パフォーマンスが作品の不完全な、もしくは近似的な表象に過ぎないという決めつけから、音楽の内なる意味はパフォーマンスでは正しく生じえないのだとまで信じる人たちまでいて、音楽の正しい意味は楽譜を研究することでしか発見されない、ところまで行き着く。したがって、演奏家が音楽的な意味の創造に関わっている、などとはお世辞にも思われていない。

第二の命題は、音楽パフォーマンスとは、作曲家から個人の聴き手に演奏家を介して届けられる、一方的なコミュニケーションである、というものだ。これはほぼ第一の命題の言い換えだが、強調点に違いがある。というのも、ここに至って聴き手の役割は、単に作品を鑑賞することに限られるからだ。かれらの作品を理解して反応しようとするが、音楽活動の意味それ自体には何の貢献もしない。なぜなら音楽の意味とは作曲家の手に完全に委ねられているからである。この命題はまた、音楽とはそもそも個人的な問題なのだということも暗示している。つまり、作曲、演奏、そして聴くことは、社会的な真空で行われるというのだ。その他大勢の聴き手の存在は、よくて無関係、悪くすると音楽作品の演奏に向き合って鑑賞する際の邪魔者でしかない。この時想定される音楽のパフォーマンスは、作曲家から演奏家に向けられた一本の矢印し、演奏家から個々の聴き手に無方多数の矢印というフローチャートに喩えることができる。ただし、このフローチャートではどの矢印も反対の方向を向いていない。それにここには、ある聴き手からまた別の聴き手への矢印もない。つまり、このフローチャート全体に、ただの一つの相互作用も仮定されていないのだ。

第三の命題は、作品に優るパフォーマンスはありえない、ということだ。作品そのものの質は考え得る限り最上級の演奏でしか実現されないから、粗悪な音楽作品が良い演奏を生じされるなどということはありえない。

第四の命題は、各々の音楽作品が自律しているということ、言い換えると、作品はそれらが演奏される状況や儀式、さらには、宗教的、政治的、社会的信念に関わらず存在し、意味を持ちうるということだ。この命題によると、作品はそれ自体に内在する質、カントが「公平無私な黙考」と呼んだところのもののために純粋に存在するということになる。たとえある作品が元は神話や儀礼の実行に不可欠なものとして始まったとしても、現代の聴き手にとっての「音楽としての質」が大切であり、元の信仰などとは縁もゆかりもないということだ。その音楽の質とは何のための質なのだろうかということは、問われることがない。音楽の意味が対象化された音楽に内在するという理念も、そこから導き出されるいくつかの命題も、世界中の人類の音楽実践とは何も関係もない。世界中の大半のミュージシャンは楽譜など必要ともしなければ、作品を後生大事に抱え込むような態度とも無縁で、ただ単純に演奏し、そのなかで創造力を発揮している。

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