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2011年11月11日 (金)

古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」(6)

3.僕たちはどこへ向かうのか?

ミクロな視点で考えると、いくら世代間格差が深刻であっても、それはかならずしも「不幸な」社会を意味しない。客観的には絶望的な状況であろうが、当人たちがれでも幸福だと考えることは、往々にしてあるからだ。いっそ日本が今以上に超格差社会、または格差が固定された社会階級社会になってしまえば、幸せな若者はもっと増えてしまうかもしれない。

例えば、中国では、都市部に「農民工」という農村出身者の低賃金労働者が多く働いている。彼らは都市に居住できないことになっていて社会保障は受けられない。当の彼らの生活満足度は、もともと都市部に住んでいる人々よりも高い。彼らにとっては農村の生活水準よりもマシだからだ。また、どうせ戸籍が違うからというあきらめが、彼らの生活満足度を押し上げている可能性かある。都市部に暮らす人の華やかな暮らしを、自分とは違う世界の話と看做す限り、それは幸せを測る基準にはならない。この農民交と対照的なのは「蟻族」と呼ばれる中国版高学歴ワーキングプアだ。「大学まで出たのにブルーカラーなんかできるか」と政府の創出した雇用が知的労働ではないからと、満足していない。彼らの上昇志向やエリート志向が、おそらく彼らを不幸にしている。

客観的には劣悪な環境で暮らす幸せな農民工と、自己実現欲求や上昇志向を捨てられないがゆえに不幸せな蟻族は、日本の幸せを考える上で象徴的だ。現実に、20代の生活満足度が上昇しているという事実は、すでに日本の若者が半ば「農民工」化していることを示している。経済成長の恩恵を受けられた世代を「自分とは違う」と見なし、勝手に自分たちで身の丈に合った幸せを見つけ、仲間たちと村々している。何かを勝ち得て自分を着飾るような時代と見切りをつけて、小さなコミュニティ内のささやかな相互承認とともに生きていく。それは時代に適合した賢明な生き方でもある。いくら親切な大人たちが「若者の貧困」を社会問題化したり、「若者はかわいそう」と叫んだところで、若者たち自身はそれにリアリティを感じられない。それは、どんな場所に生まれても、とどんな家に生まれても「ナンバーワン」を目指すことができる「近代」という時代が、いよいよ臨界点に達したことの象徴なのかもしれない。

近代化というのは、村の外側を想像することもなく一生を終えていた村人たちを、「国民」や「個人」という自立した存在として引き上げようとしたプロジェクトだった。神様に頼らずに、伝統に支配されずに、自分の人生を自分の決断によって決めていく近代人、日本の社会は作り出そうとしてきた。そして、江戸時代の階級制度は撤廃され、段階的に全国民に対して参政権が付与されてきた。近代人としての国民が主権を持つ近代民主主義国家日本の誕生だ。しかし、日本の近代化は19世紀後半にヨーロッパの産業革命を目撃し、それを日本に移転しようとしたことから始まった。その結果、日本は経済発展を果たしたが、民主主義という制度の構築に果たして成功したと言えるのだろうか。多分、民主主義とそのベースとなる市民革命より産業革命の方がパクりやすかった。また民主主義の価値を軽んずることで、民衆の利害をいったんは無視して、国家としての経済成長を優先することができた。しかし、その仕組みにも陰りが見え始める。経済成長さえすれば何とかなるとやってきた国で、経済成長化止まってしまったのだ。しかも民主主義という伝統がない国で、そこで立ちすくんでいるように見える。

国民の平等を謳いながらも、あらゆる近代社会は「二級市民」を必要としてきた。すでに日本の若者たちの「二級市民」化は進んできている。夢とかやりがいという言葉で適当に誤魔化しておけば、若者が安くて、クビにしやすい労働力だということは周知の事実だ。このままでいくと、日本は緩やかな階級社会へと姿を変えていくだろう。「一級市民」と「二級市民」の差は少しずつ広がっていく。一部の「一級市民」が国や企業の意思決定に奔走する一方で、多くの「二級市民」はのほほんとその日暮らしを送る、という構図だ。それは、人々にとって、必ずしも不幸な社会を意味しない。

今、我々が生きているのは、一億総若者化の時代だ。世代ごとの意識の差は減少し続けているし、今後ますます多くの若者が「正社員」や「専業主婦」という既存の社会が前提とした「大人」になりきれないのだとしたら、かれらは年齢に関係なく「若者」であり続けるしかない。だから、本書は「若者」を積極的に定義するのを渋ってきた。中流の夢が崩壊し始めた時代において、「若者」は増加しつつある。

第3章~第5章は割愛しました。最後の第6章でまとめをしていますが、著者は現状についての解釈をしてみせ、もはや後戻りはできない、といいながら著者自身の処方箋を示そうとはしていません。劣悪な環境でも上昇志向を捨てれば、その場では幸せでいられる。社会が階級社会化していくことに対して著者は、価値判断は留保しているようです。一概に、どうだといえないとか、研究者としての姿勢から価値判断は控えているのかもしれないけれど、文章での書き方や、この著作の文脈での取り上げ方、あるいは一種の日本社会批判の文脈の中で取り上げているのだから、ここで価値判断を明確にしていないのは、私には逃げに映りました。分析そのものは、議論を起こすようなポレーミクなもので、面白さを感じるものではあるのですが、その取り上げ方は何らかのアクションを起こすことを含みこんだ問題提起のような体裁をとっているので、最後のところで、選択肢を単に並列的に列挙しただけで終わってしまうことには、食い足りなさというのか、中途半端な印象を強く感じました。

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