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2011年11月25日 (金)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(4)

第2章 コンサートとは現代的な出来事である

シンフォニー・コンサートの現場では、何かが自発的に起こるということは、めったにない。ホールで行われるどんなイヴェントにも、その内外に、綿密な計画と組織が不可欠なのだ。その多くは私たち聴衆には見えないかもしれないが、イヴェントを開催するためには、しっかりとしたインフラ基盤が欠かせない。まず第一に、プログラムの計画とアーティストとの契約が、コンサートの開催に十分先立って行われる必要がある。というのも、近年の実力があるアーティストには世界各地を飛び回るジェット機族も珍しくないから、彼らに仕事を頼もうと思えば、何年も前から契約を結ぶ必要があるのだ。

真に人を惹きつける力を持ったアーティストは、ダイヤモンドのように稀少でランを育てるように難しい。本当の問題はスター不足とは正反対で、それほどまでに溢れんばかりの才能と技能を持つ音楽家、それに見合うだけの有利な仕事を見つけられないという、厳しい現実がある。超絶技巧演奏家と、その労働から利益を得ている人々が、ヴィルトゥオーゾの数を制限することで儲けを手にしてことは、明らかだ。これは、ダイヤモンドやランの価値がその稀少性によって保証されているのと、同じ原理である。「芸術家」や「ヴイルトゥオーゾ」という肩書を持つとは言っても、ある種の資格がその職業的地位を保っているという点、同業者の人数に制限を設けることでサービスの対価を安定させているという点に関しては、ほかのどんな職業とも変わらないのである。

一流のコンサート・ツアーの入り口に辿り着くまでには、いくつものハードルを乗り越えなければならない。コンペティションもその一つだ。コンペティションの数には限りがあるし、勝者の数に限りがある。コンペティションとは、敗者が不可欠なゼロサム・ゲームなのだ。敗者は、奇跡的な幸運にめぐり合わない限り、マイナーなツアーの世界に追いやられる。コンペティションを勝ち抜き若くしてメジャーな世界の仲間入りを果たしたとしても、そこには同じくらいの才能の持ち主が最低でも十人やそこらはいるはずだ。その中で生き残っていこうとするなら、その状態が一生続くことになる。また、コンペティションは、本来的に、極端に競争的な状況下で本領を発揮するアーティストに有利なようにできている。ヴィルトゥオーゾ市場ではメジャー・エージェントの市場操作が働いている。一握りのエージェントが、世界的な有名なオーケストラやオペラ・ハウスを支配するに至っているのだ。これはライブ・パフォーマンスだけでなく、録音や録画の世界でも起こっている。「市場価値」最優先の現代世界の基準からいくと、これも完全にビジネスの手段なのだ。この事実は、コンサート・ホールも市場主義的な世界秩序の一部であり、そこから独立することなど不可能だということを、強烈に印象付ける。現在、コンサート・ホールの世界で人間同士の関係を媒介するのは、金の流れなのだ。

シンフォニー・コンサートで演奏される曲目を、シーズンを通してみると、そこに多くの制限を見つけることができる。これは、第一に、今日の大半のコンサート・アーティストの指先や声帯、そして指揮棒が、比較的少数のレパートリーのためだけにしかスタンバイされていないという現状がある。それに、コンサートで演奏される曲目を決めるのは、音楽を雇っている経営者と言う場合が多い。経営者が求めるのは集客力なのだから、選曲はどうしても保守的にならざるを得ない。第二に、現在十分な集客力があるとされるレパートリー自体が、第一次世界大戦の頃から凍りついたままだという問題がある。その時期以降の作品には、一般聴衆にアピールするだけのものはほとんどない。だから、ヴィルトゥオーソとオーケストラ団員に共有されているレパートに限りかでてくる。第三に、総譜とパート譜が入手できるかどうかの問題がある。定番曲ならば問題はない。これらすべては、一つ一つのコンサートで誰が何を演奏するのかということが、いくつもの交渉の結果だということ、そして、そこで実際にお金を払ってコンサートを聴きに行く人々の意見が反映される余地がほとんどないということを意味している。

パブリシティにも疑問点がある。潜在的な聴衆は、コンサートの曲目や出演者のことさえ知らされていれば良いのではない。コンサートに行きたいと思わせなければならないのだ。この点では、コンサート・ホールにしてもオーケストラにしても、他のどんなビジネスと変わりはない。そして、どんな商売にも商品があるように、オーケストラには演奏と言う商品がある。重要なのは、とにかく座席を埋めることなのだ。コンサート・ホールとオーケストラが聴衆との間にとりもつ関係は、生産者と消費者のそれにすぎない。だから、あらゆる生産者と同じく、消費者が好むと思われるものを生産する。そして、他のどんな商品とも同じく、宣伝とマーケティングの技術を駆使して、できる限り消費者の好みを操作しようとする。音楽家もその演奏も、現代社会の商業的な営みから逃れられないという印象を、その意味ではポピュラー音楽とも、香水とも変わらないという印象を強く受ける。その一方でクラシック音楽の世界には、演奏家は音楽への純粋な愛のために演奏しているのであって、(ロック。ミュージシャンなどとは反対に)世俗的な名声や金もうけなど目指していない、という見せかけがある。この矛盾に、偽善的な匂いを嗅ぎ取る人もいるかもしれない。

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