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2011年11月21日 (月)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(2)

以上のような命題のおかげで、我々は実際の演奏行為の意味を把握できないでいるのだ。しかも、これから明らかにしていくが、このような誤解が演奏家と聴き手の双方に与える影響のために、パフォーマンス経験は、(豊かにされるというよりは)むしろ貧しくされているのだ。というのも、本来パフォーマンスは音楽作品を知らしめるために存在するのではないのであって、むしろ、音楽作品の方がパフォーマーに表現のための素材を提供しているからである。だとすると、音楽パフォーマンスとは、音楽作品及び作品が聴き手個人に与える影響にばかり関心を寄せている人々が考えているよりも、ずっと豊かで複雑な出来事だということになる。もし我々がパフォーマンスを構成するすべての音や人間の関係にまで注意を広げるなら、音楽の根本的な意味が、個人的なものにはとどまらない、社会的なものでもあることが分かるだろう。

音楽の本質とその根本的な意味とは、対象、即ち音楽作品の中にあるのではまったくなく、人々の行為の方にある。人々が音楽的な行為に参入する時に何をしているのか、それを理解することによってのみ、人間の生における音楽の本質と機能を知り得るのだ。この機能が何であれ、私にはある確信がある。第一に、音楽の行為に参入することは私たちが人間であることの重要な部分をなすということだ。第二に、健常な人間なら誰でも温雅の才能に恵まれているということだ。もしこの確信が正しいのならば、ほんの一握りの音楽の才能に恵まれている人々がその他大勢の無能な人々に音楽を聴かせることを可能にしている今日の音楽環境は、虚偽に基づいているということになる。というわけで、この本は音楽についてと言うよりは、人間─つまり、演奏したり、歌ったり、聴いたり、作曲したり、そして踊ったりする人間─についての本である。

ここで、著者はミュージッキング(musicking)という言葉を提出する。これは、音楽する(to music)の動名詞になり、音楽する(to music)とは、どんな立場からであれ音楽的なパフォーマンスに参加することであり、これは演奏することも聴くことも、リハーサルや練習も、パフォーマンスのための素材を提供すること(つまり作曲)も、ダンスも含まれる。この「音楽する」にはどんな種類の音楽パフォーマンスも含まれるということである。さらに、「音楽する」という同氏は価値判断とは無縁だ、ということだ。これ記述のための言葉であって規範的な言葉ではない。だから価値判断を含まず、すべての音楽パフォーマンスをカバーしている。また、パフォーマーとその他の人々のしていることに区別を設けないことで、ミュージッキングとは、その場にいるすべての人々が巻き込まれて、何らかの責任を分かち持っているのだということを、思い出させる。だとすると、「音楽作品の本質と意味とは何か?」という問いが不十分なことは明らかだ。この問いは近代西欧コンサートの文化的な前提に囚われたもので、ミュージッキングの広がりを考えれば、あまりに視野が狭い。これを「この人々が、いま、ここで、こういうパフォーマンスをすることには、いったいどんな意味があるのだろうか?」と置き換えることができる。

本書の目的は、すべてのミュージッキングを人間の活動として理解するための枠組みを提示すること、すなわち(いかにだけでなく)なぜ、私たちが個人として、社会的・政治的な存在として、これほど複雑な仕方で音楽パフォーマンスに参入するかについての理解を、最終的な目標にしている。音楽の意味が、音楽作品ではなく、音楽パフォーマンス全体の方にあるのなら、我々はその意味の理解に必要な洞察を得るために、どこから始めるべきだろうか?この疑問に対する私の答えはこうだ。ミュージッキングと言う行為は一連の「関係性」のなかで達成されるものであって、行為の意味はそれらいくつもの関係のなかにある。ミュージッキングの意味は、一般に思われているように組織化された音の中だけにではなく、あらゆる立場でパフォーマンスに参加している人々同士の関係の中にも見つけられるはずだ。こうして、パフォーマンスで実現される関係こそが、ミュージッキングへの参加者の思い描く理想の関係のモデルとなり、メタファーとなるだろう。それらは人と人との結びつき、個人と社会との結びつき、人間と自然界、さらには超自然的世界との結びつきについてのものである。これはおそらく人間の生にとって最も重要な問題だろう。そしてこの本はといえば、ミュージッキングを通じてそれらについて学ぶために書かれている。

しかし、パフォーマンスの場で生み出される関係を探り当てるためには、聴くと同時に見なければならない。そこで著者は、音楽パフォーマンスに対する探究がどんなものでありうるかを示すために、西洋音楽文化におけるシンフォニー・コンサートを例として、注意深く検討する。これには三つの理由がある。第一の理由は、読者が何らかの形でシンフォニー・コンサートを経験したことがあるから、読者自身の経験と本書のそれとを比べることが可能であること。第二の理由は、西洋音楽文化シンフォニー・コンサートは、聖なる出来事と言いうるからだ。ここで「聖なる」というのは、その性質が疑問の余地がないほど所与とされていることを指す。第三の理由は著者の個人的な事情とも密接にかかわっている。著者は西洋クラシック音楽の環境の中で育ち、それにもかかわらずコンサート・ホールに体現される社会的な関係に居心地の悪さを感じ続けてきた。この相反する感情を詳しく診察してみることだ。

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