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2011年11月 3日 (木)

小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(8)

第5章 二つのパワー

この章では、日中戦争を二つのパワーという視点から掘り下げる。すなわち、ハードパワーとソフトパワーの相克という視点である。戦争におけるハードパワーとは、軍事力や産業力のことをさす。一方、ソフトパワーとは、直接の武力によらない政治、経済、外交の他、メディアによる宣伝力、国際世論の支持を集めうるような文化的な魅力など、広範な力が含まれる。

この戦争に置き換えれば、日本の殲滅戦略的な戦争はハードパワーの戦い、中国の消耗戦略的な戦争はソフトパワーの戦いということができる。そして、これまでみてきた日中戦争とは、ハードパワーにものをいわせて戦線を拡大してきた日本が、その力を過信して様々なルール違反を犯し、その結果、様々な反動が生じて破綻するまでの過程もあった。ここで重要なのは、そうした野蛮あるいは卑劣な行為を行うことは、短期の殲滅戦においてはさほど勝利に影響を及ぼすことはないかもしれないかもしれないが、地容器の消耗戦になった場合は、確実に自殺行為になるということである。すぐには目に見えなくても、そうした行為が世界に喧伝されて国際社会から反感を買うことのダメージは計り知れないほど大きい。そのとき自国のソフトパワーは大きく後退し、その分相手国のそれが増大してきているのだ。この出入りはとてつもなく大きい。既に多くの欧米諸国では民主主義が少なからず成熟していて、指導者たちは世論を無視して針路を選択することができなくなっていた。そうした状況で国際社会を味方に付けるためには、外交にとどまらない多様な手段で自国をイメージアップするソフトパワーが最早必須となっていたのである。国際社会の中での自国の位置づけを意識することなく、局地的な殲滅戦争に明け暮れていた日本には、そのことが遂に理解できなかった。

1937年の開戦と同時に日本がハードパワー強化のために着々と手を打った。国家総動員体制である。これを日本のみならず植民地にも適用することで、植民地と本国、すべての人的・物的資源を総動員する体制づくりを推し進めた。これによる施策は、植民地・占領地経済を日本の戦争経済に取り込んだという意味では、たしかに日本のハードパワー増大に寄与したが、反面、朝鮮や中国の企業家、民衆の反発を増加させることにもなった。ソフトパワーという観点から見れば。マイナスの結果であったといえる。

日中戦争の特徴の一つに通貨戦がある。蒋介石の国民政府が重慶に退いて以降は、日本占領地と共産党支配地域との間で激しい物資争奪戦層が展開された。いかに自軍に必要な物資を獲得するか、いかに敵が必要な物資を相手に渡さないか、が戦場の雌雄を決する、物資争奪戦の様相を呈してきたのである。しかし物資は通貨を以って購入するわけだから、物資争奪戦はつまるところ、通貨戦という形を撮って現われる。1938年以降は明らかに、そうした消耗戦略的な戦いに中国戦線は変わっていった。日本にとっての通貨戦はまず、国民政府の法定紙幣である「法幣」の駆逐と、日経通貨の強制流通という形で展開された。日本は少なくとも1940年までは国内でのハードパワーの強靭さに支えられて、通貨価値を維持していた。その手段の是非はともかく、こと「モノ」と「カネ」の戦いにおいては日本のハードパワーは、集中力、迅速さなどどれをとっても中国を上回っていた。

では、ハードパワーにおいてこれほど見事な強みを発揮した日本が、結局敗れた原因は何だったのかを改めて考えてみたい。既に繰り返して述べているように、直接には戦場における殲滅戦略戦争の失敗が敗因と考えられるが、その根底には、さらに広い意味でのソフトパワーの欠如があったとみるのが本書の視点である。国内体制のハードパワー強化が円滑に進む中で、最後まで日本がうまくきのうさせられなかったのが、ソフトパワーの象徴とも言うべき外交だった。日本の外交体制がうまく構築できなかったのは、この戦争を殲滅戦略的発想で進めたことが大きな要因となっている。そして、それは、日中戦争に限らず、近代以来の日本がずっと抱えてきた宿痾のようなものだった。本格的な外交交渉力を必要としない短期局地戦争ばかりを戦ってきた結果、外交軽視の体質が生まれ、蒋介石にその欠点を的確に見透かされることになるのである。

日本とは対照的に、国民政府が展開した外交戦は水際立っていた。二歩の殻の生糸・雑貨輸入と、日本への石油・屑鉄輸出で日本の貿易・産業の命脈を握るアメリカに焦点を合わせ、外交ロビー活動を積極的に展開したのである。アメリカが対日貿易制裁に踏み切れば、外貨獲得と戦略物資供給の両方を遮断できて、日本を兵糧攻めで締め上げることが可能となる。それを見越してアメリカに照準を合わせたのだ。そのため、「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じ」という主張をいれて、アメリカを中心に国際宣伝活動を展開した。ジャーナリズムまでも巻き込んだ蒋介石の外交戦は、中国のソフトパワー戦略のまさに白眉であった。言論が戦争の勝敗に与える影響など、当時の日本の戦争指導者たちは一顧だにしなかったであろう。これに対して、当時の日本のジャーナリズムが「大本営発表」をただ垂れ流し、中国を悪とする勧善懲悪の講談のような代物に成り下がって国民の戦意発揚に利用されていた。ただ、戦争におけるソフトパワーという視点でみるならば、外交・宣伝・言論を巧みにリンクさせて国際世論を味方につけた中国に比べ、日本はあまりにも国内ばかりを向いた、日本人にしか共有できない閉じた言論に偏していたように思う。戦時下にメディアを利用しようとしたのは、何も日本だけでなく、と背の国の指導者でも考えることである。ただ、その利用の仕方が、自国弱さを逆手にとった中国のしたたかさとは比べようもないほど、日本は稚拙で独善的であった。もしも日本の戦争指導者が本気でジャーナリズムを戦争に利用するのであれば、全世界の人々が共感しうる普遍的な表現で、中国人がいかに暴虐で、日本の正当な権益がいかに侵されているか、この戦争がいかに日本とって大義名分があるものかについて国際的理解を得られるよう、各メディアに発信させるべきだったのではないか。自らも国際社会の一員であり、そこに向かって自らの行動を説明すべきだという意識の欠如にこそ、日本のソフトパワーの弱さが表われているように思える。

一方、中国には多くの欧米ジャーナリストが訪れ、戦時中の国民党・共産党の活動を日本に紹介した。日本のジャーナリズムと中国のそれとの決定的に異なる点はここにある。例えばエドガー・スノーは、日中戦争を取材し、近代兵器で武装した日本軍の野蛮さと残虐さと、これに対して素手に近い形で民族の存亡をかけた戦いを繰り広げる中国軍の姿を描いた。日本は結局、彼らのような国際ジャーナリストや作家な取材されることはなく、彼らの共感を得ることもなかった。彼我のこの差の理由は、ひとつには日本側が外国人従軍記者やカメラマンの同行には拒否、あるいは消極的な姿勢しか見せなかったのに対し、中国側は敢えて歓迎の意を示したこともあるだろう。しかし、誤解してはならないのは、国際世論の支持を得ようとする中国側が、外国人取材者に対していくら自国を美化し、あるいは買収めいた工作をしたところで、良心あるジャーナリストは決してそれを理由に中国に肩入れはしないということだ。中国側は、まやかしでない真実の自分たちの姿を見せて、辛抱強く外国人記者たちに理解されるのを待ち、彼らが彼ら自身の言葉で書いてくれるための努力を続けたのである。結局、外国人ジャーナリストや作家の多くが中国側に共感したのは、中国の指導者や民衆の戦いがヒューマニズムに強く訴えるものであったからである。人間の尊厳をかけた戦いであるがゆえに彼らは感動し、共感を持ち、それを英語という世界言語で宣伝したのである。それは中国のソフトパワーの強烈さの表われにほかならなかった。

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