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2011年11月28日 (月)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(6)

第3章 見知らぬ者同士が出来事を共有する

我々が観に行くのが演劇であれ、映画であれ、ミュージカル、オペラ、シンフォニー・コンサート、スポーツ等々の何であれ、パフォーマーは当然のこと、聴衆や観衆のほとんどが見知らぬ人たちだということを、我々は意識しないままに受け入れている。我々は、一度も会ったことのない人々、声をかけたり挨拶することもないだろう人たち、このさき二度と会うことはないだろう人たちと一緒に居ながらにして、笑ったり、泣いたり、身震いしたり、興奮したり、自分という存在について深く考えさせられるほどに感動するだけの準備が出来ているのだ。しかし、我々にとってはいかにも当然だと思えることも、人類の歴史からすればかなり例外的なことではある。たとえば村落社会の場合では、演奏家と聴衆というのは同じ共同体のメンバーとして知り合った者同士である。同じことは、古代アテネから18世紀ウィーンに至るまでの小規模都市にも当てはまる。

村落社会の演奏家は、誕生、結婚、死その他の人生の重要な出来事の神話を祝う営み、つまり共同体の儀礼において、中心的な役割を果たしていた。彼らは、そのために社会的に必要とされていたのだ。そうした儀礼では誰もが歌ったり踊ったりするのだから、演奏家とか聴き手とかいう区別は、そもそもはっきりしたものではなかった。音楽のパフォーマンスとは、我々が儀礼と呼ぶ、より大規模でドラマティックな活動の一部だったのである。そうした儀礼では、共同体のメンバー自身が互いの関係と相互的な責任を直に演じてみせた。そうすることで、共同体全体のアイデンティティを確認し、祝った。

同じような例は、西洋の貴族社会にも見出せる。貴族社会でも、ミュージッキングは社会的儀礼の一部をなしていて、その儀礼はかれらの世界観を維持するのに不可欠だった。彼らの社会では、音楽は聴くものであると同時に演奏するものであったし、貴族が音楽家を雇ったのは、音楽家の演奏を聴くためだけではなく、演奏を教わるためでもあった。また、中世からルネッサンスにかけてのキリスト教会と同様、貴族社会の音楽も、共同体が行う神への捧げものだった。聖歌隊は会衆に向かってではなく、会衆に成り代わって歌ったのであり、会衆はそれに「アーメン」と賛成を表したのだ。もちろん今日でも、会衆全員が歌うときに聴衆など必要ない。そうした形式のミュージッキングでは、入場料など発生しようがない。

今夜のシンフォニー・コンサートに集まった人々は互いによそ者同士だが、彼らはコンサートが終わるまでずっとそのままだろう。友人同士で訪れたとしても、いったん演奏が始まれば、座席に座って身じろぎもせず、互いにアイコンタクトを交わすことさえ避けて、一人ひとり極めて個人的に体験するというわけだ。どんな種類のパフォーマンスであれ、そこに集う人々はたった一人の個人として、孤立した状態で演奏を経験するのだし、そうすることも期待している。彼らはよそ者同士かもしれないが、見方によっては、まったくそうとも言えない側面がある。どんな音楽イヴェントの参加者も、自分が何者でどうありたいのかという感覚に基づく、ある種の自己選択をしているわけだが、シンフォニー・コンサートも例外ではない。複数の産業国家で行われてきた調査結果の多くは、シンフォニー・コンサートの聴衆の圧倒的多数が中産階級と上流階級で占められていることを示している。少々大雑把にいうと、彼らは会社員、経営者、専門職、行政関連などの仕事に就いているか、その予備軍である。これは、どんな種類の音楽イヴェントとも同じく、コンサート・ホールの聴衆の間にも、どこか基本的な類似点があるのではないかと言いたいからだ。つま、彼らが一緒に寛いでいられるのは、お互いが期待通りに振る舞うだろうと予期できるからなのだ。コンサート・ホールにいる聴衆は、時間通りに入場しなければならないこと、もし遅れればホールから閉め出されること、演奏中は静かにしていなければならないことを、誰もが当然視していると分っている。彼らは、ホールのスタッフに丁寧に、かつ敬意を払って扱われることを期待している。期待される振る舞いはそれにとどまらない。

聴衆は。全員で音楽体験を共有しているにも関わらず、何にもまして、互いのプライバシーの遵守を期待している。演奏の最中に聴き手が一人きりになることは、音楽作品を十分に楽しみ理解するのに必要な条件だからだ。彼らがコンサートの場で社交をしないというのではない。それは、開演前や休憩時間にロビーで起こることであって、聴衆席に入り込む余地はない。コンサートという出来事は社交と聴取に切り離されていて、音楽作品の体験は、最優先されるべく他の活動から隔離されているのだ。

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