小林英夫「日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ」(6)
第3章 傀儡の国
日中戦争第二期は、1938年10月の武漢作戦終了後に戦線が膠着し、殲滅戦略戦争の遂行が不可能となった日本が、謀略によって、重慶へ移った国民政府の分裂を策動した時期以降のことをいう。戦局が消耗戦陸戦争へ傾斜していくのに従い、日本側では蒋介石政権内部の親日派と連合して政権分裂を誘い、局面を打開しようという動きが軍を中心に始まっていた。直接粋な軍事力によらない戦いという意味では外交に近いのかもしれないが、あらかじめその実態を明かせば、交渉相手への信義も敬意もなく自国の利のみ追求する、一過性の謀略というしかないものであった。
日本がターゲットに選んだのは、蒋介石に次ぐ国民政府ナンバー2の汪兆銘だった。日本は和平交渉に応じた汪と偽りの条件で合意を結び、抗戦を続ける蒋介石と汪兆銘の分裂を狙ったのである。汪は日本の策動にはめられ、妻や側近たちと茨の道を踏み出すことになる。外交交渉の相手をだますなどということは、当然、許されることではない。日本の謀略は、のちにそれが露見したあと国際的信用を大きく失墜させる要因となった。だが、こうした詐欺行為も軍事行動の一環だったと解釈すれば、多少の疑問の解消にはなる。彼らが策したことは消耗戦略への転換ではなく、あくまでも殲滅戦略の変形に過ぎなかったのだ。
汪兆銘は重慶を脱出した後、上海に入る。そこで彼を待っていたのは脆弱な寄せ集めの勢力でしかなかった。上海周辺で彼の見方になり得る勢力の多くは、日本の軍事行動により一掃されてしまっていたのだ。
汪兆銘政権は発足したものの、事実上、日本軍の傀儡として発足した。しかし、彼は当初から傀儡になるつもりだったわけではなかった。和平の志を抱き、「日華協議記録」「日華協議記録了解事項」を信じたからこそ、重慶を脱出したのである。だが、その彼を待っていたのは「日華協議記録」締結の十日後に決定された傀儡性の強い「日支新関係調整方針」だった。この「方針」が正式な日本側の意向として伝えられたとき、すでに政治・経済・軍事・外交などの根幹を日本に掌握されていた彼が政権を樹立するには、日本軍の言いなりになる以外になかったのである。しかし、こうした日本軍の外交に名を借りた殲滅戦略的な謀略も、膠着した日中戦線の打開には実効をあげられなかった。それどころか、中国側の謀略の暴露なとによって、国際社会の中でさらに反感を買う結果を招くことになる。それは国民政府の蒋介石が展開する外交戦に有利に作用し、アメリカ、イギリス、オランダなどによる縦日経済制裁を誘発して、日本をますます苦境に陥らせていった。そこへ遠くヨーロッパから舞い込んだのが、ナチス・ドイツ快進撃の報であった。汪兆銘南京政府樹立から半年後、日独伊三国軍事同盟を結んだ日本は英米との対立を深め、太平洋戦争へと突入する。それは、開戦からすでに4年以上に及んだ日中戦争の行き詰まりを、はるかに強大な敵・英米との戦争によって打開しようという狂気の選択に他ならなかった。殲滅戦略的な発想しか持ちえなかった日本は、まさに息の根が止まるまで果し合いを演じるよりほかに、戦争を終結させることができなかったのである。
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