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2011年11月 7日 (月)

古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」(3)

第2章 ムラムラする若者たち

若者たちが「内向き」になっているというのは、新聞の言説などでよく入ってくる。内向きには色々な意味があると思うが、新聞各紙が描く若者像は、次のようなものになるだろう。

彼らは時代の閉塞感を敏感に受け止めて来たから、安全で確実な道を選んで生きる。インターネットを使って世界中と繋がる可能性こそは持っているものの、英語力が足りないため自由な交流ができているわけでもない。留学生も減っているし、青年海外協力隊への参加者も減っている。他人を押しのけてまでも成功を求めずに、むしろ身近な仲間たちを大切にする。社会を変えようともしないし、投票にも行かない。

しかし、内閣府が実施している「社会意識に対する世論調査」の結果を見ると、個人志向の若者より社会志向の若者が多い。過去に比べても社会志向の若者の割合は増加傾向にあり、また、他の年代よりも割合は多い。さらに社会貢献したいと思う若者が増えているという結果が見えてくる。しかしながら、実際に社会貢献活動に参加している若者は増えていないのだ。

若者の海外離れという点から見てみると、例えば海外留学について、留学生のピークはバブル時代ではなく2000年代中頃で、若者人口減少とあいまって留学者率でみると過去最高になっている。つまり、不況だ、格差だと叫ばれている最近のほうが、バブル時代よりもよっぽど留学している。アメリカ一辺倒だった留学生が、中国などに目を向け始めて行先が分散化したため、留学生が減ったような印象を受けてしまうのだろう。

また、若者がモノを買わなくなったという言説も多くなった。よくよくデータを分析してみると、若者は決してモノを買わなくなったわけではなく、買うモノとそのスケールが変わっただけの話なのだ。昔ほど自動車は買わない。お酒も飲まない。海外旅行も行かない。しかし、「衣・食・住」などの生活に関わるモノは買うし、通信費など人間関係の維持に必要なコストはかけている。ただし、若者の人口減少のスピードが急激なため、若者が自動車を買わなくなったなどの事実が過剰にインパクトを持ってしまったのだろう。さらに、若者が流行を作り出すトレンドセッターという切り口は1980年代に作られたフィクションであり、当時の若者は人口ボリュームが大きく、若者の側にも流行発信源の自負があったためだ。だから、いつの間にか消費者を躍らせるはずだったマーケターや広告会社たちが、かつて自分たちの作り出したフィクションに踊らされ、という皮肉な構図が「若者がモノを買わない」議論の真相に近い。

2005年ごろから、様々なメディアで「不幸な若者」や「可哀そうな若者」がクローズアップされることが多くなりました。だが、国民生活に関する世論調査等によれば、今の若者たちは生活に満足していると答えた人の割合が高く、増加傾向にあるらしい。しかし、日常生活に悩みや不安を抱えている若者は多いことは同じ調査からも分る。生活に満足していながらも不安を抱えている。一見矛盾するようだが、こう考えられる。「今は不幸だ」「生活に満足していない」と人が言えるのは、「今は不幸だけれど、将来は、より幸せになれるだろう」と考えられる時だ。将来の可能性が残されている人や、これからの人生に希望がある人にとって、「今は不幸だ」といっても、自分を否定したことにはならない。逆に言えば、もはやこれ以上幸せになれると思えない時、人は「今が幸せだ」と答えるしかない。事実、多くの調査で共通して、高齢者は幸福度や生活満足度が高い。高齢者にはもう、いまよりもずっと幸福な将来を想定できないからだ。このような幸せな若者のことを「コンサマトリー」という用語で説明できる。コンサマトリーというのは自己充足的という意味で、「今、ここ」の身近な幸せを大事にする感性のことだ。何らかの目的のために邁進するのではなくて、仲間たちとのんびりと自分の生活を楽しむ生き方と言い換えてもいい。つまり「より幸せ」なことを想定した未来のために生きるのではなくて、「今、とても幸せ」と感じられる若者の増加が、幸せな若者の正体と言えそうだ。

このような現代の若者が幸せな理由として、若者たちに友人や仲間の存在感が増してきたと言われている。もはや「若者文化」と呼ばれるものがない時代で「一人じゃない」ことを確認するためには、物理的に「仲間」と一緒にいるのが一番手っ取り早い。この「仲間」などの身近な関係を大切にする姿勢は、その集団の外から見れば「内向き」に見えるのかもしれない。事実、自分の所属する仲間たちのコミュニティを大切にする若者たちは、「ムラ社会」の住人のようである。このような、まるでムラに住む人のように、「仲間」がいる小さな世界で日常を送る若者たち。これこそが、現代に生きる若者たちが幸せな理由の本質である。社会学では「相対的剥奪」というが、人は自分の所属している集団を基準に幸せを考えることが多い。例えば、コンビニで時給900円のバイトをしている人は、同じ職場で980円の時給の人には競争心や嫉妬を抱くが、年収数十億のセレブに憧れることはあっても、本気で比べることはない。それは、コンビニで働く自分にとってセレブは違う世界の人だからだ。同じ理由でも景気後退期ほど生活満足度は上昇する傾向にある。国全体の景気が悪い時は、みんなが困っているので剥奪感は感じない。しかし景気が訳なると徐々に格差がひろがり、将来の期待も高まるので、自分の収入が多少増えたとしても剥奪感を感じてしまうのだ。だから、若者たちが「今、ここにある小さな世界」に生きているならば、いくら世の中で貧困が問題になろうと、世代間格差が深刻な問題であろうと、彼らの幸せには影響を及ぼさないことになる。彼らが自分たちの幸せを測る物差しにするのが、自分と同じ「小さな世界」に属する「仲間」だとすれば、「仲間」以外の世界がどんな状態になっていようと関係がない。それは、「世間」の崩壊が原因ともなっている。世間という準拠集団がなくなった時代では「島宇宙」という「小さな世界」がすべてなのだ。しかし、そのような状態は延々と続くものではない。なぜなら、仲間や友達というのは壊れやすいものだからだ。そして、変わらない仲間と過ごす日々は、長く続きすぎると若者たちに閉塞感をもたらす。そこでは、日常の閉塞感を打ち破る出口を一方では求める。例えば、震災ボランティアのような自分のつまらない日常を変えてくれるくらいの「非日常」が到来し、そして「非日常」と日常をつなぐ経路が確保されたのならば、「内向き」のはずの若者も動き出すのである。若者たちは「何かしたい」というムラムラする気持ちを抱えながら、実際には変わらないメンバーと同じような話を繰り返して「村々」している。そして、「村々」を打破してくれるような「非日常」があれば、「ムラムラ」してそれに飛び込んでいく。しかし、「ムラムラ」した状態は長くは続かない。どんな非日常も、やがては日常になっていくからだ。「非日常」というのは、村々する若者たちにとっての村祭りのようなものだ。

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