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2011年11月29日 (火)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(7)

オーケストラと聴衆も互いに見知らぬ者同士で、知り合う機会などない。これは、彼らが、別々のドアを使ってホールに出入りし、コンサートの間中別々の空間にいることからも分る。このことはオーケストラと聴衆の双方に、むしろ安心感を与えているらしい。彼らは互いに親しい関係になりたいわけでもないし、棲み分けは明らかに重宝されている。その一方で、聴衆は静かに着席してオーケストラの演奏を受け取ることしか期待されておらず、唯一の許された反応は演奏直後の拍手だけだ。あまりに演奏が気に入らなければブーイングすることもできるが、それはかなり極端なケースに限られている。演奏の最中であれば、目に見えるか耳に入るような目立った反応は、それが賞賛であれ非難であれ、してはならないことらなっている。つまり、コンサート・ホールは、私たちに明確で矛盾のないある一連の関係をみせてくれているのだ。聴衆一人ひとりの自律性とプライバシーの尊重、非人間的な礼儀正しさとグッド・マナーの当然視、親しみやすさの拒絶、上演中は演奏家も演奏も聴衆の反応の対象とならないこと。シンフォニー・コンサートに足を運ぶ人の大半は自発的にそうしているのだから、聴衆は押しなべてこの関係をたのしんでいるということなのだろう。従って、この関係がコンサート・ホールに集まる人々の心の中で、ある種の理想として思い描かれていると言ったところで、こじつけにならないはずだ。

シンフォニー・コンサートにおける聴衆の沈黙と明らかに受け身的な姿勢は、歴史的には極めて新しい習慣なのだ。第一章で紹介した18世紀のラネラーの円形劇場は例外ではない。現代のシンフォニー・コンサートでの演奏を迎える沈黙は特徴的ですらあり、そこで聴衆は、自分以外の観客が立てるノイズで邪魔されることなく、演奏を通じて作曲家と完璧なコミュニケーションを達成することができる。その一方で、我々の注意は、いくら研ぎ澄まされているとしても、パフォーマンスからは切り離されている。我々はもはや、自分がパフォーマンスの一部だとは感じていない。あたかも、その外側にいるかのようにして聴いているのだ。我々が立てるノイズは、パフォーマンスの構成要素にはなり得ず、雑音はうるさくて邪魔な存在でしかなくなった。となると「コンサートにいる我々」は、参加者というよりもむしろ傍観者に近い。演奏中の静寂は、自分たちのためにアレンジされた見世物をじっと見つめるだけで、パフォーマンス自体には何の貢献もできないということを物語っている。さらには、その見世物は我々のものではないし、我々とその見世物製作者(作曲家、オーケストラ、指揮者、裏方の人たち)との間にある関係は、消費者と生産者の間にある関係と同じものであると言うことができる。我々にできることは、普通の消費者と同じで、買うか買わないかを決めることだけなのだ。

これは、現代でも、ロック・フェスティバルでの参加者の振る舞いとは大きく違う。しかし、ロック・フェスティバルにも、正しい振る舞い方と間違った振る舞い方、正しい服装と間違った服装、正しい話し方と間違った話し方、そして他人やパフォーマンスに対する正しい反応と間違った反応があった。もしロック・フェスに、シンフォニー・コンサートに出かけるような格好で現れ、シンフォニー・コンサートでそうするように振る舞ったとしたら、嘲笑の的になったか敵意を向けられたのどちらかだったろう。こうした振る舞いの規範の規範は根付き確立されている。このような規範が窮屈でなく自由に感じられたのは、そこで理想的な社会関係を表現した人々によって、その規範が軽やかだったということに他ならない。シンフォニー・コンサートを含むどんな音楽パフォーマンスでも、服装を含めたあらゆる行動において、同じことが言える。特定のイヴェントを楽しむということは、その場にいる人々の不めまいが、押し付けではなく、自然で普通なものに感じられているということなのだ。そして、その音楽パフォーマンスの最中は、かれらが日常生活で出会いたいと思うような社会関係が、メタリックな形で表現されているのだ。シンフォニー・コンサートや祖股のクラシック音楽の演奏で確立される関係は、あたかも、我々の社会の表向きの関係を反映しているかのようである。少なくとも、その場に参加することは、社会や政治的な規範を提供し、それを実行しようとする権威の側からすると、完全に模範的な活動といえる。すでに示唆したように、我々はそこで中産階級で善しとされるマナーに従って振る舞い、逸脱しないように上品ぶっているのだ。

音楽する時我々がどんなふうに互いに関わり合うかは、そのパフォーマンスが創り出す音の関係や、ミュージッキングへのむ参加者同士の関係だけに関連するのではない。それは、ミュージッキングに参加する我々が、パフォーマンス空間の外の世界とどう関わるのか、ということにも関連している。この諸関係の複雑な螺旋、即ち関係と関係の結びつき、こそが、パフォーマンスの本当の意味なのだ。

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