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2011年11月26日 (土)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(5)

現代コンサート界の重要なお目付け役が、批評家である。批評家と言う職業が出現したのは19世紀の゜ことで、これは、人々が入場料を払ってコンサートを聴きに行くコンサート・ホールの発展と、公共の場でのパフォーマンスがアマチュアからプロのミュージシャンに取って代わられるようになったのと、機を一にしている。パブリックな場で音楽制作に積極的に参加するアマチュア音楽家が減少するにつれて、多くの人々とは自らの音楽的鑑賞眼に自信を失っていたのである。今日では、あまりにも多くのヴィルトゥオーゾも作曲家、オーケストラ、指揮者が世間の注目をひきつけようと、競ってパフォーマンスと言う商品を提供している。だから人々が、何が良くて何が悪いのか、何が目下流行中で何が時代遅れなのか、つまりは何を買うべきなのか、を教えてくれる「お買い物ガイド」を必要とするのも当然だ。それなしには、選択の権利に自信をもてなくなってしまう。しかし、ここで我々が思い出さなければならないのは、人々が音楽パフォーマンスに十全に参加するところでは、もしくは、ミュージッキングがもっと大きな社会的、宗教的、政治的儀礼の一部である場合は、批評など全く必要ないということだ。

音楽が一音も鳴らないうちから、コンサート・ホールという建物と組織のあり方は、すでにある一連の関係、つまり建物の外側にある産業社会の関係の小宇宙、を創りだしている。すでに見たように、コンサート・ホールにおけるすべての関係は、金のやり取りによって媒介されている。簡単に言えば、入場料を払いさえすれば誰でも入場してその出来事に参加できるが、入場料を払わなければそれができない。また、そこで代金を受け取る人々だけがその重要な出来事を実現させられるのであって、代金を支払う側はその資格をもたない。もちろん、このこと自体は私たちの社会と変わるところがないから、何ら特筆すべきところはない。だが注目すべきは、そこに払われる膨大な労力、経営管理と会計処理の機能を覆い隠さんとする労力であり、この魔法の世界を実現する巨大な建物の中では誰も報酬を受け取っていないかのように見せかけ、すべてが自然に起こっているかのようなイリュージョンを創り出さんとする労力である。演奏家の出演料は聴衆には全く関わりないことだし、実際、指揮者やソリストともなれば、ギャラの金額を知ることは極端に難しい。

もし、シンフォニー・コンサートという崇高なセレモニーと、産業社会の実際的な価値観との結びつきがこじつけのように見えるだとすれば、次のように考えてみてほしい。他に先駆けて産業化を果たした欧米諸国以外の国でも西洋クラシック音楽スタイルのミュージッキングが採用される場合があるが、それはしばしば、産業社会の哲学とそれに基づく社会関係への転換が実現し内面化されたことを示す初期のシグナルでもある。産業社会的な人間同士の関係が伝統的なそれに取って代わり、産業から生み出された富によって裕福な中産階級が発達すると、主要都市ではプロのシンフォニー・オーケストラとその演奏拠点(パフォーミング・アーツ・センター)も発達する。伝統社会の音楽文化とは違って、西洋のクラシックの音楽学校は万人に開かれているから、神童ヴィルトゥオーゾ(彼らはたいてい新興の富裕中産層の子供だ)が、旧い音楽文化の聴衆に衝撃を与えるようになるだろう。そこでは、彼らと西洋クラシック音楽文化との新鮮な出会いが反映させられているかのような斬新なアプローチが、見せつけられるのかもしれない。だが、それと同時に進む別の動きもある。西洋スタイルのポピュラー音楽が、クラシック音楽とは別の関係の理念とアイデンティティを探求し、確認し、祝うというのがそれで、産業社会のプロレタリアートが神鋼中産階級的なミュージッキングから自分たちを切り離そうとするのが、その典型的な動きである。低く見られがちなこの種の音楽は、国家の正当性から顧みられない分、ミュージッキングの伝統の重要な要素を吸収できる。先進国の文化に肩を並べたいと切望している新興の中産階級は、この種の音楽を口先でほめることはあっても、基本的には軽蔑している。当然のことだが、このような状況は、シンフォニー・オーケストラとコンサート・ホールが富裕な社会でしか維持できないくらいに費用がかかる、という事実と関係がある。ここでいう富裕な社会とは、世界の産業化によって富がもたらされている社会のことだ。だが、西洋のコンサート文化を打ち立てるには、経済的な余裕以上の何か、つまり、富を他のタイプのミュージッキングや音楽に無関係な事柄に使うのではなく、他ならぬクラシックのコンサートのために使うのだ、という欲望と意志とが必要なはずだ。この欲望と意志は、産業的発展を背後から支えている、ある哲学とも関係しているに違いない。

下巻財のシンフォニー・コンサートは、そこで演奏される作品が初演された頃とは、かなり異なったものになっているということだ。だから、現在のコンサート・ホールをディズニーランドを原型とする現代的なテーマパークに喩えたところで、まったく見当違いなことではないだろう。どちらにも、人工的な環境を創り出すための最新の技術がさりげなく注ぎ込まれている。そして、そこを訪れる消費者は、彼らの体験が遥か昔から当然ものとして行われてきたことの再現なのだと思い込まされる。さらにそこでは、汚物や悪臭が排除されているが、それがかえって本物らしさを増している。どちらも徹底して、現代的な世界の関係を祝うという、現代的な出来事に他ならない。いま私たちがコンサート・ホールで耳にするのは、過去の理想的な関係の再現だ。だが、それは過去に存在した関係そのものではない。そんなことはいずれ不可能なことだ。我々が経験するのは、今夜のパフォーマンスに関わる人々が理想的だと感じられるように、現代的にアレンジされた関係である。そして、めったに語られないことだが、その再現には、現代的なテクノロジーによって創り出される別の関係も、重要な役割を果たしている。

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