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2011年12月 1日 (木)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(9)

そこで次に、「生きた世界をつなぎ合わせる情報は、どんな形をとるのだろうか?」という疑問が現れる。それに対してベイトソンが提示する答えは次のようなものである。生き物によってやりとりされる情報とは、背景とそこから際立つ対象物のような静的な違いであれ、時間とともに変わる動的な変化であれ、生き物が感知できるような「差異を伝える知らせ」以外にはない。差異とは、背景から際立った形や色、ある配色の仕方、特定の動きやそのパターン、姿勢、化学的作用、音として知覚できる衝撃波のパターンを形作るのに十分大きな気圧や水圧の変化などのことをいう。期待されるところで差異が生じないこと、期待される出来事が起こらないことも情報源になりうる。感覚器官によって拾い上げられるそれらの差異は、それだけでは経験とは呼べない。それらは神経系で処理されるまでは、受け手によって意味を持たないからだ。差異の効果、すなわち我々が知覚としてまさに経験するものとは、その物理的な差異が生み出したものが変換されたものか、もしくはコード化されたもののひとつのヴァージョンなのだ。

それでは、こうした多様な感覚的刺激を一つの経験やイメージ形成に結合するメカニズムがいかなるものであれ、この過程は提示された刺激を受動的に受け取るようなものではなく、能動的な過程だということだ。そうした能動性が、生きた世界の隅々にいたるまで、様々な形で存在するのに違いない。生物であれば刺激、即ち差異の知らせに働きかけて、そこから意味を創り出す。例えば、アメーバのような単細胞生物でさえ、その生命源となる生き物が近づいてそれを呑み込むためには、獲物が棲み込む一滴の水と言う存在の現れに、我々の言う「意味」に似た何かを見出す必要がある。どんな生き物も、情報に対する準備が出来ていない限り、いかなる差異も情報として受け取ることはできないし、ましてやそれを変換することなど不可能だ。情報の受け手は、メッセージが意味を持つように文脈を能動的に創り出すのだ。そして、文脈なしにはどんなコミュニケーションもあり得ないし、意味もまたない。

情報がいかに処理されるかは、識別者の遺伝的な性質と過去の経験の両方に左右される。生物としての程度が上がれば上がるほど、過去の経験が情報処理の過程に、より多く入り込んでくる。個体同士の経験が異なってくるから、各々の個体は同じ刺激に対しても違ったふうに行為したり反応したりするのだ。また、イヌやヒトのような高等な生物は、同一の個体であっても、その時々で同じ刺激に対して別様に反応するだろう。情報処理のなされ方が周期的に変わることを我々は気分と呼ぶが、逆に、経験と知識の成長のために起こる、もっと長期的で一般的な不可逆な変化というものもある。もし、会部の世界についての知識が刺激の変換という能動的なけっかだとするなら、世界とは、個体の外部にあるモノや対象の性質からのみ成り立つのではない。なぜなら、世界は、刺激を受け取る側が刺激を変換する、そのやり方によっても成り立っているからだ。だから、知識というのは、対象についての知識に違いないのだけれど、それと同じくらいに、対象について知っている者の所産でもある。知識とは、知る者と対象との間に結ばれる関係だと捉えるのが、最も正しいのだ。だとすると、この世に個体の外部にしか存在しない、完全に客観的な知識などというものはありえないことになる。だとすると、この世に個体の外部しか存在しない、完全に客観的な知識などというものはありえないことになる。なぜなら、我々が知り得るすべての事柄は、我々(=知る者)が「情報」を受け取ってそれを利用可能な「知識」に変換するという方法自体に媒介されているからだ。我々人間が近づき得る最も「客観的」な知識とは、おそらく、全人類に共通する身体的な経験に根ざした知識だろう。ここで我々は、世界についての人間の知識の中でも、デカルト自身を含むヨーロッパの哲学者たちが共通しの土台にしていた主観という還元不可能な要素こそが、挫折の原因なのではないかということを発見する。しかし、ベイトソンは、人間は世界についての知識に対して完全に客観的にではあり得ない、だからといって我々が完全に主観的で、世界の何事にも確信を持てないと結論づけてはいない。「純粋に客観的であること」と「純粋に主観的であること」の間には大きな隔たりがある。そしてその空間にこそ、人間の自由と創造性が息づいているのだ。いずれにせよ、人間を含むどんな生き物も、世界の全てを知り尽くす必要などない。よりよく行きたいと願う者は、その支配を企てる者とは反対に、世の中には我々が知り得ないこと、また知る必要のないことがあるのだという考え方に甘んじていられる。知り得る事柄をすべて知り尽くした生き物は、知識の牢獄に完全に閉じ込められてしまい、ユーモアの感覚はもちろん、創造的に活動する余地を奪われてしまっているかもしれないのだ。

「結び合わせるパターン」を作り出す情報とは本来的に物理的なものだ。我々が相手にしているのは、知覚の受容体、物質的な感覚器官、そして生物の処理器官が受け取る情報の処理だけである。現代の神経学が明らかにしつつあるように、心の内側にあるとおぼしき経路は本来的に物質的なものであって、それらは、いかに素晴らしく柔軟でどんな状況にも適応できるとしても、物理的な構造として存在する。つまりコミュニケーションとは、心の外部へと続く物理的な経路なのだ。生き物同士の間にあるコミュニケーションのチャンネルとそこでやり取りされる情報の処理は、物質的な過程であり、その差異の知らせを受け取るためには、たとえ未発達であるにせよ物質的な感覚器官が必要となる。

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