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2011年12月16日 (金)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(22)

第8章 ハーモニー、天国のようなハーモニー

今夜の指揮者の身ぶりから生み出されるのは、楽器の最高音から最低音までの全音域が鳴り響く、とてつもなく濃密なサウンドだ。現代のシンフォニー・コンサートに使用されるすべての楽器は、滑らかなアタック音を出すことが可能で、じつにスムースな音色で演奏される。オーケストラが生み出すサウンドは極めて澄んでいて、雑音がほとんど見当たらない。ここで大雑把にノイズとは望まれない音、認識されないか、認識できたとしても好きになれない音、と定義することができる。シンフォニー・オーケストラの音の世界では、ベルやサイレンのように音高を明確に知覚できない音は、全音階的な七つの音にもその間の五つの半音にも還元できない。ドラム、銅鑼、シンバルといった、音高におさまりきらない音を出す楽器は、まさにそのためにノイズ楽器と見なされていて、めったに出番がない。

オーケストラが生み出すのは、波乱にとんだサウンドでもある。短時間のうちに多くの変化が起こって、聴き手に息つく暇も与えない。演奏中は、あたかも時間が凝縮されているかのようだ。コンサートを待ちわびた人のための、厳選された贅沢な時の流れが、ここにはある。大音量とソフトなそぅんど、複雑な音とシンブルな音、緩やかな変化と急激な変化、優しく上品な音と騒々しい音、ごく少人数の静かな演奏と全アンサンブルがめいっぱいかき鳴らす演奏、これらは、突然の変化やコントラストによる驚きの連続なのであり、そのすべてが、聴き手を絶え間のない興奮状態に保っている。言い換えると、これは目的を持った音なのだ。期待を生み出しながら聴き手を時間の流れに誘い出し、注意深く計画されたにとどまることを知らない緊張と解放の間を往復しつつ常にクライマックスを目指し、最終的に解決と終結に辿り着く。力と力が対立する葛藤の感覚が、常に付きまとう。最も穏やかな瞬間も、クライマックスと解決に向けた前進のために、瞬く間に音の波に押し流されてしまう。事実、シンフォニー・コンサートの演奏を聴くことは、ある目的に従って統制された力/権力のイメージを目の当たりにすることに等しい。

個々で、少しの間立ち止まって見る必要がある。というのも、本来、目的を持つ音など存在しないからだ。目的という観念が人間の構築物だということは、言うまでもない。ましてや目的を持つ音、聴き手に期待を生み出しつつ時間的に前進する音、という観念など、言葉を話したり理解したりするのと同じように、その慣例に従った幾通りもの音楽を演奏したり聴いたりした上でなければ、理解不可能なはずだ。だから、我々がそれらの慣例を、話し言葉の慣例になぞらえて「構文」と呼んだところで、こじつけにはならないはずだ。すべてのミュージッキングの文化には、生み出される音の関係をコントロールすねための、構文に相当するものがある。これは、ミュージッキングの参与者がそこで生み出される意味を共有するためには、不可欠なものだ。だが、構文が音楽のすべてではない。というのも、もし音楽の意味が構文で説明可能だとしたら、曲を演奏する必要などなくなって、我々は小説を読むように自宅で楽譜を読めば済むことになってしまう。現在のコンサート・ホールで聴くことのできるほぼすべての作品は、ある共通の構文を利用している。それが機能和声と呼ばれる、一連の手順の複合体だ。機能和声は、共時的かつ通時的な音の関連をある程度方向付ける。つまり、機能和声に従って配置された音は、ノイズではないのである。

機能和声とは和音と言う音の組み合わせの中でも、特に三和音を通時的につなぎ合わせることで、「意味」を作り出すテクニックのことだ。ある和音から特定の和音に移行することで聴き手に期待が呼び起こされる。予期していた和音がならないと、意味の未完成さを感じてしまう。反対に、我々が普通と感じる和音の展開の仕方もあって、それを完全終止と呼ぶ。完全休止とは、ある地点から始まる一まとまりのフレーズ内の全ての音の知友心となる主和音で始まり、緊張とクライマックス、そして解決を経て再び主和音に戻るという、循環的な動きのことを言う。我々は皆、子供頃からこの連続を認識して反応するように訓練されているので、たとえ和音の名前を知らなくても、一つの和音がなったその次に何を期待すべきか、実際のところはよく分かっているのだ。しかしこの循環は、期待の裏をかいたりじらせたりすることで断ち切ることができる。こうなると更なる緊張が生み出されるが、この緊張は予期しないような方法で、なおかつ期待通りの和音に最終的に着地することによってのみ解決される。それをいったんじらしたり欲求不満にしつつも、最終的には聴き手の期待を満たす。このゲームに似た感覚こそが、西洋のコンサート文化における作曲技能の主要な要素である。いかに我々が慣れきっているとしても、機能和声に自然なところなどない。あらゆる音高の無限の組み合わせから特定の音だけを選び出すという三和音の発想は、たしかに、よく使われる和声が比較的単純な数学的比率を成すという自然法則に基礎づけられている。どんな音楽システムとも同じで、西洋の機能和声のシステムも、多くの手間と時間がかけられた人間の構築物である。だから、この方法で喚起される聴き手の快楽は自然なものではない。この快楽が、特定の音楽システムに慣れることで初めてもたらされるのは間違いない。だがシンフォニーの演奏では、演奏を聴いた瞬間に生じる満足感もある。音楽の喜びは作品形式の鑑賞によってしか得られないとか、形式が完璧でない限りは快楽はないと信じている人々もいる。

西洋クラシック音楽の専門用語に慣れていない人は、自分が機能和声のことを理解できていないと思うかもしれない。しかし、和音や和声同士の関係の呼び名を知らなかったり楽譜に書いたりできなくても、実際には母語が分るように理解している。もしハーモニーがいかに動くかを理解していなければ、壮大なスケールのシンフォニーやコンチェルト、あるいはこじんまりしたポピュラー・ソングに関わらず4セス気知覚の西洋音楽の本質を基礎づけてきた、緊張と解放、クライマックスと解決を感じられないはずだからだ。ほとんどの人々が機能和声の意味を学ぶのは、コンサート・ホールやクラシック音楽の録音からというよりも、映画やテレビに使用される音楽を通じてである。いずれにせよ機能和声は、シンプルな形であれ、コンサート・ホールだけにではなく大衆音楽や民衆音楽にも、ほほすべての西洋世界の音楽制作に浸透している。これは、我々の誰もが知らず知らずのうちに母語を学ぶのと同じように、我々全員に共通した音楽の理解の仕方なのだ。もちろん言語と音楽との間には違いもある。母語が分かるということは、他者の話し言葉を理解できて、なおかつ自分もその言語を話せるということを意味する。しかし、音楽の場合は、機能和声の生み出す効果を聴き分ける技能と、機能和声で意味を作り出す技能の間には壁がある。そして、その壁を乗り越えるには、長く専門的な訓練が必要とされてきた。本当のところは、楽器を弾いたり歌を歌える人なら誰でも、「スーツを心地良く着古す」くらいには機能和声の形式を習得することができるからだ。そして、母語に必要なのは学校ではなく普通の会話であるように、そういうやり方こそが大衆スタイルのミュージッキングに不可欠なのだ。あらゆる世代のミュージシャンが、そうやって機能和声を効果的に使っている。

和声理論には、別の側面がある。音高の閉じた循環を可能にした、平均律と呼ばれる要素がそれだ。このように音高同士の関係が、特定の音楽を演奏するための全体的なシステムに支配されていることは間違いない。我々が想定しているように、あるミュージッキングに参加する人々が理想とする人間同士のつながりが、音の関係に隠喩的に表われているとすれば、音高や音程はパフォーマンスにおけるすべての繋がりを基礎づけるはずだ。平均律は高度に抽象的で数学的な概念であり、キーボード楽器は言うまでもなく、ほぼすべてのシンフォニー・オーケストラの楽器に普遍的に使用されている。平均律に基づく曲や演奏を、我々は抽象的で数学的な音として聴くわけではない。自然な音として聴いているはずだ。だがそこにこそ、西洋産業社会の自然に対する態度が示唆されている。機能和声と言う技術は、論理と劇とを不可分に結びつけている。というのも、作曲家が和音進行を劇的に、かつウィットに富んだ意外性で飾り聴衆を喜ばせるということは、結局のところ、聴き手を驚かす和音の進行をハーモニーの論理に則って選び出すことに他ならないからだ。過去4世紀のあいだ時代を築いてきた作曲家たちは、もっと大胆で新規な驚きを作り出そうと、自らの作曲のハードルを上げ続けてきた。

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