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2011年12月29日 (木)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(35)

良いパフォーマンスの実現に不要なものとしては、作曲家の書いたテクストの権威と、忠実な演奏に対する強迫観念がある。どちらも現代のコンサート・パフォーマンスの特徴だ。我々は、パフォーマンスこそが先に誕生したのだということを、決して忘れてはならない。このことは、人類の音楽史の観点からも、個としてのミュージッキング能力の発達という個体発生の観点からも、そして、美学的にも正しいと言える。音楽とはパフォーマンスなのであって、曲とか作品とかいうものは、ささやかなものであれ最大限に壮麗なものであれ、書かれたものであってもそうでなくても、パフォーマーに何か演奏するための素材を与えるために存在するに過ぎない。我々が演奏する時、そのパフォーマンスが続いている最中は、我々は音の間や参加者同士の間に、ある一連の関係を出現させる。我々はパフォーマンスを経験するあいだ、自らの理想とする関係のモデルを学ぶ。このある種の模倣活動は、私がここで使用してきた三つの後(探求、確認、祝い)によって暗示されるように相互的なものだ。パフォーマンスの間中、ミュージッキングへの参加者や周囲にいる人々の間を、あらゆる情報が一気に駆け巡る。それらの情報は、コトバだけでなく、身ぶりの言語によっても伝えられる。

ここから、何世紀ものあいだ哲学者たちを悩ませてきた別の言葉、すなわち美についての洞察も得られるかもしれない。というのも、ここに音楽という言葉に似た混乱があるからだ。音楽などというモノがないのと同様、美などというモノも存在しない。あるのは、ある対象や動きがそれを知覚する人間に心地良いという反応を起こさせ、彼らにそれを美しいと知覚させる、ある種の性質だけである。どんな刺激も、生の刺激が意味にまで変換されるには、知覚者側の能動的な活動が不可欠である。一個人の外部にある知識と同じで、刺激も絶対的なものでなく、知覚するものと知覚されるものとの関係に他ならない。我々が美と呼ぶ知覚は、その関係の意識化しうる形の表象なのである。美の感覚はこの過程の結果や目的化しうる何物かとして出現するのではなく、ある関係が生起しているという徴なのである。

美の感覚とは、知覚者が身ぶりやモノと結び合わせるパターンを通じて繋がっていることの徴であり、知覚者がそれらのパターンを理想の関係として受け取っていることの徴だということだ。たとえて言えば、知覚者の心の中に理想的と言える関係の網目が「秩序」や「論理」としてあって、そこに知覚されるモノや身ぶりの秩序や論理がうまくマッピングされるような場合のことである。それがぴったりとはまり込むことで、美と呼ばれる感覚が生じる。美が対象を眺める者の眼の中に存在するという古い見解には、ある程度までの整合性がある。というのも、美がモノや身ぶりのなかに絶対的な意味で存在するわけでないということは、確実だからだ。そうではなく、モノや身ぶりが喚起される特定の反応を、知覚するものが自身の内側で知覚するときに、美は生じる。もちろんミュージッキングの場合は、我々の反応はモノに対してではなく、常にパフォーマンスという身ぶりのパターンに対して起こる。

今日はちょうど仕事納めということで、「ミュージッキング」が終わったところで、今年のアップはこれで最後とします。また、新年の仕事始めから、通勤時の読書が始まるので、それに合わせて仕事始めから再開します。

それでは、良いお年を!

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