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2011年12月 3日 (土)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(11)

全体的に言って、人間は数よりもパターンに、量よりも関係に敏感に生き物だ。我々がメタファーでものを考えるのは、この辺りに理由がある。すべての生き物にとって最重要の関心事が環境との関係だという事実は、当然人間にも当てはまる。実際、我々は、自分たちのことを他者とのつながりの中で定義しているのだし、自分が何者かということは、自分がどう他者と関わっているのか、ということに他ならない。他者との関係がないところにアイデンティティなど存在しないし、完全に孤立して、誰とも関係を持たない人間は、アイデンティティをもちえない。我々が普通の生活を送っていて、コシバと記述の間にある隙間が問題になることはない。というのも、どんな間に合わせの表現方法でも、我々にはその溝を埋めるのに十分な共通の経験があるからだ。だからたとえば、小石というモノのイメージを呼び起こすには、「小石」という単語で十分だ。仮に、「小石」という発語が我々全員に同一のイメージを呼び起こさないとしても、我々には小石というカテゴリーについて、身体的経験に基づいた十分に重なり合った部分がある。もちろん、カテゴリーは所与なものではなく、人間の心の中で絶えず構築され直し続ける。だから、たとえば砂粒と小石、石と大玉石の間に引かれる線は、我々による交渉と合意の賜物なのだ。私とあなたの間では、感覚機器による知覚を通じて、互いに重なり合った身体経験が作り出されている。それが、我々の知覚するものが本当にそこにあって、本当にそこで起こっているのだという、安心感のげんせんなのだ。だからこそ、人間は仲間を好む。

コトバにはもう一つの問題がある。我々はものを名づけたりそれについて語ることを可能にする、名詞の利便性は、あらゆる考えや関係を、あたかも一個のモノであるかのように我々の思考を仕向ける。例えば、愛する、嫌う、善いこと/悪いことをする、本当のことを語る、礼拝する、そして音楽するという諸行為は、愛、嫌悪、善悪、真実、神、音楽という抽象概念で呼ばれることになる。そして、気を付けていないと、我々は抽象概念の方を行為よりもリアルなものと勘違いしてしまうのだ。これこそが、どこまでも我々人間につきまとう具象化の罠であり、いったん具象化されたモノについて殊更に騒ぎ立てるという、プラトン以来の西洋的思考の悪癖の根源である。

しかし我々は、生物学的により古いコミュニケーション形態である身ぶりの言語を失ったわけではない。今日では「パラ言語」と呼ばれて残っている。身体の姿勢や動き、身ぶりの言語、顔面の表情と声の抑揚は、人間生活のなかでコトバが果たし得ない機能を、とくに関係の表現と探求において不可欠な機能を果たしている。慣習に高度な柔軟性が見られる霊長類のような高等動物では、慣習とは、各個体が一生の間学び続けるものである。人類の場合となると、個体間で、さらに重要なことには互いに異なる物理的、社会的な環境に育った者同士で、かなりの多様性が予測できる。しかし、身ぶりの言語における文化間の違いが、コトバに比べるとずっと小さい。それに、我々は、身ぶりによる異なる文化間の対話が可能だということを、経験的に知っている。異文化の身ぶり的な習慣の違いは、共通語の中の方言のような違いだと言えるかもしれない。ペットを飼った経験があれば誰もが知っているように、身ぶり的な慣習は、異種間のコミュニケーションをも可能にする。パラ言語で嘘をつくのは極端に難しい。その一方で、パラ言語を駆使した遊びは、動物のコドモと全人類に古くから共通する、大切な気晴らし行為だ。遊びでは、日常の文脈からの一時的な離脱という、コミュニケーション上の文脈転換が起こっているのだが、ここで我々がある種の関係の可能性を、実際そこに身を投じることなく探求しているのだ。遊ぶという能力がもっとも高度に発達しているのは人間だが、少なくともすべての哺乳類が何らかの形で遊ぶ。遊ぶ能力は、人間以外の哺乳類では、成熟するにしたがって弱められるか消えてしまうが、人間の場合には大人の生活にも生き残っている。そして、人間の身ぶりによるコミュニケーションは、生死にかかわり得るような差し迫った状況から自由であるために、比較的急を要さない談話の役割を担っている。この談話の機能は太古の昔から不変だ。しかしなかでも、人間と世界との結びつきを表現する特定の身ぶりの言語が、人類の長い歴史の中で特に入念に作り上げられてきた。それこそが、我々が「儀礼」と呼ぶ、身ぶりのコミュニケーションの複雑なパターンなのである。

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