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2011年12月18日 (日)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(24)

ここで我々が追求するのは次のことだ。世界に存在する複雑な諸関係を教え、それを印象付けるには、ミュージッキングやダンスを含む儀礼と呼ばれる偉大なパフォーマンス芸術が喚起する感情の方が、言葉よりもずっと有効なのではないだろうか、ということだ。音楽と感情の関係については、伝統的な一連の問題がある。学者もミュージシャンも、長年次のような問に悩まされ続けてきたが、音楽には感情というものが存在しているのだろうか?音楽はその外部にある何かを指し示すようには見えないが、だとすると音楽は何についての表現なのだろうか?音楽は音の心地良い組み合わせに過ぎないのだろうか?これらの疑問には、表面的にはまったく異なる二つの接近法がある。第一の見方は次のようなものだ。音楽は感情(ないしは感情群)のコミュニケーション、表出、表象に関わっている。そして、音楽は人から人へ、つまり作曲家から聴き手へと、演奏者を媒介にして感情を伝えることを可能にする。この見解はアカデミックな世界では、表現主義と呼ばれている。これと正反対なのが形式主義として知られている立場で、これによると、正しい音楽の認識と感情には何の関係もない(もちろん、ミュージッキングが感情を喚起することは否定しないが、ここでは音楽によって喚起される感情が軽視されるか、音楽の高尚な死命を傷つけさえするものとされている)。音楽の適切な目的は純粋で公平な美学的経験であり、そこには作曲家が出現させた音のパターン、音の形式、驚きをもたらす音の組み合わせという、美の黙考以外の何物も含まれていない。この見解の極端かつ最も厳格なヴァージョンは、音楽的響きがもたらすいかなる感覚的な快楽も否定する。私は、このどちらも私個人のミュージッキング経験にはあまりよく当てはまらないと、常々思ってきた。もし表現主義の言うことが正しいとして、一体どうして人々はそれほどまでの労力をかけて感情を伝達し合わなければならないのだろうか?なぜ聴き手はその感情を受け取りたくてたまらない、ということになっているのだろうか?これらの疑問は、常識的な感覚に基づいている。結局のところ、我々は他人の感情を感じることなしに、自分自身の感情を十分に持っているはずだからだ。反対に、音のパターンという抽象的な美の黙考自体が目的なのだという主張は、独我論的とまではいかないとしても、かなり自己中心的な営みに見える。形式主義はまた、ミュージッキングが高度な社会的な経験だということ、それこそが私が常にミュージッキングに見出す特徴なのだが、をほとんど無視している。

二つの学派は、実は見かけ以上に共通する部分がある。第一に、どちらの学派の思想も、感情の本質とその人間の生における機能についての問いを携えていない。どちらも感情を、嬉しいか悲しいかを表す独立した心的状態として片づけていて、感情にたいした意義を見出していない。第二に、どちらの学派の思考も、音楽の「モノ性」を前提としている。注意深く検討してみれば彼らの議論における「音楽」は、一般に曲や音楽作品を意味していることに気づかされるだろう。曲や作品の概念所与であることに気づかされるだろう。これらに疑問が差し挟まれる余地がないのだ。ここでも、パフォーマンス行為そのものが意味を生み出すということが無視されている。第三に、どちらの学派も、17世紀以降のシンフォニー音楽やその作品が、数あるミュージッキングの一つに過ぎないという事実を認識することに、失敗している。そこから人間のミュージッキングを一般化することは、その他の音楽文化にはまったく無関係なミュージッキングのあり方や、スタイルの理想を押し付けるのに等しい作業だというのに。

ここで我々は、再びベイトソンに立ち戻る。彼は音楽と感情の関係についての問題を解決する概念も提示している。というより、そこに問題などないことを理解させてくれる。ベイトソンは、感情は独立した心的状態ではなく、関係のあり方についての計算が意識の中で共鳴する様なのではないかと示唆する。計算とはベイトソン自身が使用する言葉だが、彼はこれによって漢字用に関する議論についてまつわる曖昧さや混乱を避けて、正確かつ明晰に語ろうとしている。今、すべての生物が、「私はこの実体とどう関わるべきか?」という問いに対する解答を、生存のために必要としているとする。すると、ます彼らには、この関係についての情報を、自分自身に対しても表象する必要が出てくる。そして、そのためには、生物は最低限の意識を備えていなければならない。即ち、関係が特定の感情の状態を喚起して、それが意識されるのだ。従って我々が幸福と呼ぶものは、愛されたり望まれたりすることが意識の上に出現する時の表象であり、悲しみはそれが欠如していることに対する反応なのだ。他方で、恐怖は生存を脅かしうる実体を知覚する時の表象である。

したがって、もし音楽することが、我々の世界に存在するいくつもの関係を言葉で表わすだけではなく、実際にその只中に身を置いてそれらを経験することも意味するのなら、それが強烈な感情の反応を引き起こすことに驚く必要はない。ところで、その感情とはパフォーマンスによって引き起こされるのではない。感情は、パフォーマンスがうまくいっていることの、ミュージッキングへの参加者が気持ち良い、もしくは理想的と感じる音や関係が、パフォーマンスの最中に実現していることの、徴なのだ。私には、悲しい曲を聴いて悲しくなるとか、ハッピーな曲を聴いて嬉しくなるとかいうことが、良いパフォーマンスに参加することで引き起こされる複雑な感情の動きの。粗雑な単純化に思える。我々はミュージッキングの最中に、正しいと感じられる関係や理想的なつながりを、全身と全感覚器官で経験する。意気揚揚とした喜びや何かを達成したかのような感覚は、ここから生み出される。そうすることで我々は、「これこそが本当の世界のパターンなのだ」「こここそが私たちが本当に所属している場所なのだ」と感じることができる。

そもそも、ある曲が悲しいとか楽しいかいう考え方は、17世紀以降の西洋におけるオペラやコンサート音楽に支配的だった表現的な様式にしか存在しない。この主張は、同時期に発展した音楽表記のシステムに依拠したものだから、どの音楽にも普遍的に当て嵌まるなどということはあり得ない。音楽の行為は関係に関わるものであり、そこで喚起される感情状態は、ミュージッキングが機能しているということの知覚でしかない。

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