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2011年12月25日 (日)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(32)

「昔むかし」や「みんな幸せに暮らしましたとさ」の決まり文句も、シンフォニー作品の演奏と無関係ではない。「昔むかし」は、歴史的な時間や日常の時間から、シンフォニーの物語られる神話の世界へ我々を連れて行く。物語の中で語られる出来事は、単なるお話しではなく神話である。そのなかで、英雄的な人々の振る舞い、かれらの葛藤と解決が、具体的な闘争や解決として提示される。これらは、おやすみ前のおとぎ話と同じくらいに影響力のある、社会化の機能をもつのである。後者の決まり文句「みんな幸せに暮らしましたとさ」はメタ物語の核心的な性格、すなわちその閉鎖性を思い起こさせる。メタ物語には明白かつ決定的な始まりと終わりがあり、エンディングで登場する秩序こそが、最終的な秩序なのである。シンフォニー作品が常に壮大なカデンツァで終結させられることが、主人公が末永く幸せに暮らしたということ、物語に続きはないことを教えてくれる。

シンフォニー・コンサートとおやすみ前の時間との第二の類似点は、繰り返しの重要性である。シンフォニーのリパートリーでは、お気に入りの曲は何度も繰り返し演奏されるが、新しい作品がそのレパートリーに入れられることはほとんどないか、あったとしても渋々で仕方なしに、といったところだ。この事実に関しては、二つのことが言える。第一に、これは過去からの普遍の原理だったわけではないということだ。シンフォニーの黄金期には、飽くことのない新作への希求があった。この力が弱まったのは、古典作品を正典化するというアイディアが出てきた19世紀半ばのことだ。第二の点は、おやすみ前の時間のストーリーと同じで、シンフォニー作品の演奏の果てしない繰り返しが、それらが持っていたに違いない、我々の心をかき乱すほどの力を剥ぎ取ってしまった、というものである。一時期斬新とされた何千もの手法が、何度も使用されることで、平凡なものになってしまった。それらの作品の演奏は、当時とは異なる機能と異なる意味をもって、現在のパフォーマンスの儀礼に組み込まれた。今日それらを演奏することは、既存の価値を転覆したり不快にさせようとするものではなく、安心と心地良さのメッセージを伝えることに成変わってしまった。これらの作品一つひとつがあらゆる世代の賞賛によって幾度となく認可され、シンフォニー・コンサートと言う儀式の社会的承認をバックにして贅沢な環境で演奏されるものとなった今日、他にどのようなメッセージが考えうるだろうか。

第三の類似点は、子供と同じように我々も、物語が書いてある通りに完璧に話されることに、とらわれ過ぎていることだ。我々は演奏家に対して、音符だけではなくすべての装飾音、アクセント、スラーを楽譜通りに演奏することを要求している。私は、おやすみ前のお話が子供たちにとって良いものに違いないとは思うけれど、それが大人にとってどれほど良いものなのかについては確信が持てない。とりわけ、物事がいつまでも過去と同じではあり続けないということが我々の誰にとっても明らかな場合、安心を薬のように過度に投与することは、致命的にもなりうる。昨今行われるシンフォニー・コンサートという出来事の全体は、たとえ意識的にでないにせよ、産業社会の中産階級と上流階級にある種の安心感を提供できるようにデザインされてきたし、現在もそのようにデザインされている。かれらは自らの価値観と理想的な関係についての考え方を提示して、その出来事に参加する人々に向けて、それらが真実であり続けるということを主張する。この壮大な建物に入った瞬間から、我々の目の前にその関係は具体的に示される。まさにこの場所の外観と形式と組織が、その関係に形を与えているのだ。聴衆同士の関係、聴衆とオーケストラ団員との関係、ミュージシャン同士の関係、聴衆-ミュージシャン-指揮者の間の関係、この三者と作曲家との関係、かれらとホールの従業員との関係、ホールの内側にいる人と外側にいて儀式に参加しない人の関係、儀式への参加者とかれら自身の過去との関係、このすべてが提示され、儀式に参加する人々の全員が、かれらの思い描く理想的な関係を表現するのである。そこから見えてくるのは、コンサート・ホールで出会う人々との関係と、ミュージシャンによってもたらされる音と音との間にある関係を見出すことのできる近似した関係だった。私が音楽パフォーマンスにおける人間同士または音同士の関係の重要さを強調するのは、その場で現われる関係性にこそ、パフォーマンスの意味が横たわっているからである。私がシンフォニー・コンサートについて説明しようとしてきたことは、いつどこで行われるどんな音楽パフォーマンスについてもあてはまる。大雑把にいって、どんなパフォーマンスについてついても発し得る疑問は三つのグループに分けられるように思えるが、その概要は次のようになる。

1.音楽パフォーマンスへの参加者と、それを囲む物理的配置/環境との関係はどのようなものだろうか。

2.音楽パフォーマンスへの参加者同士の関係はどのようなみーものだろうか・

3.そこで生み出される音同士の関係はどのようなものだろうか。

この三つの幾分恣意的に分類した関係は、孤立しているのではなく、複雑に繋がり合っている。これはグレゴリー・ベイトソンが、第二の結びつき(関係同士の間にある結びつき)や、第三の結びつき(関係同士の間にある結びつきと、また別の関係のある結びつき)と呼んだものに相当する。第二の結びつきでさえ言葉にするのは相当複雑なのだから、第三の結びつきともなると、公式としてみえてくるもののあまりの複雑さに、我々の心では把握しきれないと思わせられる。音楽パフォーマンスの最中に確立される関係のパターンと、それらの(第二、第三、…、第n次の)つながりを結び合わせるパターンは、隠喩的な形式で、我々自身、それ以外の人々、そしてそれ以外のすべての生きた世界とを結び合わせるパターンのモデルとなる。そしてそれらこそが、人間の生において最も重要な事柄なのだ。人間が取り持つつながりのパターンが複雑で矛盾しているように、我々の奥深くにある願望や信念のイメージも、複雑で矛盾している。もし我々が、人間の生におけるミュージッキングの位置を探ろうとしているのは、それはまさにいま、ここにあるということだ。

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