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2011年12月15日 (木)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(21)

だが、今日のコンサートの世界を支配しているのは、音楽作品がどんな演奏をも超越して存在し続ける、と言う考え方だ。ここにはプラトン的な実在の概念を見出すことができる。すなわち、作品があたかもモノのようにそこにあるという考え方であり、パフォーマンスは本来的に作品の近似物でしかありえないという考え方だ。そうした幻想は、姿かたちのある楽譜と言う実体によってもたらされているのだろう。これは、行為から抽象的な実在を創り出し、それがあたかも実際の行為以上にリアルだと思い込む、ヨーロッパ的な性向のためなのだ。たしかにパフォーマンスは儚いものに違いないが、パフォーマンスが、音楽的な過程や音楽作品に従属するなどということはあり得ない。反対に、パフォーマンスこそがミュージッキングの過程の根本なのであり、その他のすべてのプロセスはそこから派生するのに過ぎないのだ。確固とした作品なしにミュージッキングが成立することも、実際にはよくある。その場合の作曲行為は、ミュージシャンが気に入ったフレーズを何度も繰り返した後に、それをある程度、通時的で共時的な構造をもった音に結晶化させようと目論むことで始まる。こうして、音楽作品はパフォーマンスから進化し、つねにパフォーマンスに向かって戻っていく。パフォーマンスを促進することこそが、作品の機能なのである。

音楽を書き記す行為は、作曲行為のずっと後に始まるが、これは人間のミュージッキングに標準的に備わるものではなく、むしろ例外に属する。この記譜の機能は常に二つからなる。一つは、音の順序を固定して誰が弾いても同じように演奏されるようにすることで、曖昧な人間の記憶の代わりをすることであり、もう一つは、作品が生み出された場から地理的もしくは時間的に隔たった人々もその音の順序を学習し、演奏することを可能にすることである。西洋社会はさらに、ここからコンサート文化に独自な第三の機能を生み出した。すなわち、作曲家が一人静かに曲を組み立てられるための媒体としての役割を持つようになったのである。こうして実際に音を聴く人なしに作曲が可能になったおかげでも作曲行為はもはや現実の時間とともに流れる音の中で仲間と協働して行うものではなくなった。この第三の機能こそが、西洋のクラシック音楽文化における、音楽作品の精巧さと複雑さを可能にしたと言われている。

一方、記譜法に頼らないで作曲することはできる。参照用に書かれた楽譜がなければ、曲は繰り返されるパフォーマンスを通じて変化し、発展を続けるだろう。そして、それらを比較するための不変の「正しい」ヴァージョンがない限り、変化をわざわざ気にかける者もいないだろう。誰も曲を固定化したり保存したりしないのだから、パフォーマンスの状況が変わればそれに伴って曲も変化する。曲は珍重するためのものではなく演奏するものためのもので、パフォーマンスの目的は曲の提示ではなく、その出来事に相応しい演奏をすることなのだ。そうすることで、その出来事は人間同士の出会いを促し、パフォーマンスは出来事を秩序付けて、その場での出会いを忘れがたいものにする。これを可能にする曲は尊重されるが、それができない曲は捨てられてしまう。この喪失によって、新しい創造的な仕事を行う余地が生まれるのだから、これを損失だと感じる必要もない。尊重されるのは創造的な仕事であって、そこで創り出されるモノではない。ここでは作曲、練習、演奏は一つのプロセスなのであり、無極とパフォーマンスの間にも、作曲家とミュージシャンの間にも、区別などない。つまり、そうした文化では音楽的な世界は統一されていて、すべてが密接につなぎ合わされているのである。このような額に依存しないパフォーマンスでは、人々の力関係は拡散していて中心がない。全員が一定の権利と責任とを分かち合うのである。どんな共同作業とも同じで、楽譜のないアンサンブルにもリーダーはいるが、リーダー以外のパフォーマーも曲に貢献するのだから、リーダーが創造性を独占することはない。聴き手と見物人もまた、演奏中のミュージシャンに対して、ダンスやその他の視覚的・聴覚的な反応でエネルギーをフィードバックすることで、確実に創造的な役割を果たしている。彼らはまた、鋭い鑑識眼でパフォーマンスの良し悪しを見極める。なぜなら、彼ら自身もまた別の機会では、演奏する側に回る人々だからである。

しかし、ミュージシャンが曲の変化を防ぐために演奏の指示を書き記す必要を感じた途端、ミュージッキングの性質と担い手たちの間の関係に変化化が訪れる。それまで一体になっていた音楽の宇宙にひびが入るのだ。作曲家とパフォーマーの分離、作曲とパフォーマンスの分離、パフォーマーと聴き手の分離と言う分裂のプロセスが始まる。そして、演奏家に何をすべきかを指示する作曲家と、かれらに演奏を指示する指揮者に権力が集中し始める。今日のコンサート・ホールや録音時の演奏を特徴づける、作曲家の意図通りの音に対するしつこい忠誠の強要、比較的新しい現象であって、せいぜいこの時代に始まったにすぎない。

昨今の聴衆はクラシック音楽の作品の演奏に、形式的及び構造的に、圧倒的な完璧さを聴き取っているが、それは往年の聴衆が作品に聴き取っていたのとは明らかに異なる。「過去は異国」という喩えがあるように、我々は作品の演奏という儀礼を通じて、過去を訪れている。だがそれは、騒乱、猥雑、混乱に満ちた、現場としての過去ではない。それは、作品に聴こえる特徴と作曲家の人生の断片を意図的にではなく、我々の無意識の願望に沿うように、つなぎ合わせて構築した、神話的な過去、テーマパーク的な過去なのだ。それらの作品は、過去に持ち合せていた驚くほどのショック、興奮、不安、当惑などを、親しみ易さと引き換えに失ってしまっている。現代の演奏の意味を一言で表すならば、それは安心感だろう。それらの作品の演奏は、もはや誰の不安もかき立てない。コンサート・ホールでの演奏と言う儀礼は、参列者に対して、過去から連綿と続くものが未来永劫変わらないことを再確認して、安心させているのだ。しかし、この儀礼で昔から受け継がれ、これからも変化することがないのは、演奏の指示が書かれた総譜だ。総譜は、コンサート・ホールに集まるすべての人間同士の関係と、その全員の関心の中心にある音の関係とが交差する地点にある。だから、シンフォニー・コンサートという儀礼に参加したいと望むのが、産業社会の住人、特にそこから最大の恩恵を受ける人々だということに、なんら不思議はないのである。

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