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2011年12月13日 (火)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(19)

しかし、儀礼と芸術の連合はさらに深いところまで達している。儀礼は単に芸術を利用するのではなくて、儀礼それ自体がパフォーマンス芸術の偉大な総体なのだ。儀礼にこそ今日われわれが芸術と呼ぶものすべての起源がある。今日の西洋社会で我々は、芸術が儀礼から分離されていること、つまり芸術の自律性と独立性、そして世俗性に誇りを持っている。私は、この分離を現実のものというより錯覚に近いものだと感じている。この分離の起源は一般に思われているよりずっと近年にあると認識している。絵画、彫刻、ミサ曲、協奏曲のどれもが、元来は当時の儀礼のために、特別な出来事や儀式の際の展示用に生み出されたもので、これらがあたかも儀礼の機能を持たず、純粋な鑑賞だけを意図した完全に自己充足的な作品であるかのように見え始めるのは、19世紀の中ごろか、それよりも少し早い時期に過ぎない。儀礼の機能を持たないように見えるのは外見上のことに過ぎない。シンフォニー・コンサートでは作品の演奏は儀礼の機能からは引き離されてはいない。儀礼の性格は変わってしまったかもしれないが、その本質的な機能は残っている。このことはコンサート・ホールの建築を見ても分る。コンサート・ホールは教会や寺院と同じく儀礼のための建物なのだ。この儀礼では、産業社会の中産階級の人々が、自分たち自身に対して、もしくは彼らの周囲にいる人々に対して「これが私たちなのだ」と言うことに動機付けられているのだ。だからこそ、すべての芸術がパフォーマンス芸術なのだということ、芸術とは何をおいても活動なのだということ、すなわち創造する、展示する、実演する、見る、踊る、着る、行進する、食べる、嗅ぐ、映し出すという行為のことなのであって、創り出された対象のことをいうのではない。つまり、何を創り、展示し、見るかを、音楽のパフォーマンスでいえば何を演奏し、聴くかを、我々が選ぶことの方が、明らかに意義深い。対象は行為を生み出すためにあるのであって、その逆ではない。

人類初期の社会や現在の多くの未開社会においては、宗教、儀礼、芸術の活動は互いに切り離されてはいない。今日の分断された一つひとつの芸術も、過去に達成し得た統合を常に目指している。どんな芸術的パフォーマンスもつぶさに観察してみれば、表面上それが専心している芸術以上のものを包合していることが、分かるはずだ。例えば我々は、音楽パフォーマンスという儀礼が、いかに身体的で社会的な環境と一定の衣装や振る舞いの流儀を、その参加者に要求するかを見てきた。しかも、それらは物珍しい行動として現われるではなく、できる限りその場に自然に、なおかつそこに集まる人々が帰属意識を感じられるように現われる。その場に利用可能にあらゆる芸術的メディアが総動員されて、ひとつの総合芸術が作り上げられているのは、この目的のために他ならない。そして、その場にある一つの一つの要素は単なる飾りではなく、パフォーマンスという人間の出会いに本質的な部分を成しているのである。

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