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2011年12月 7日 (水)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(15)

ステージでは指揮者が登場する。指揮者の登場は、シンフォニー・コンサートという出来事に焦点をもたらした、ステージ上の演奏は言うまでもないし、リハーサルでの彼の存在感も唯一無二のものだったはずだ。この指揮者の権威は、総譜を支配できることに由来している。

その人自身が音を出すわけでもなく、しかも、グループの演奏を(内側からというより)外側から指揮する音楽家というのは、そもそも奇妙な発想だ。これは世界の音楽文化の中でも、西洋のシンフォニーとオペラの文化だけに独特なものかもしれない。指揮者の役割は、ルネサンス期のキリスト教会のミュージッキングに誕生した。音楽アンサンブルの形式に起源をもつ。この新たな形式のアンサンブルは、別々の音を統合させるという偉業を成し遂げたのだった。この演奏には、自ら参加するというよりは、聴いてもらうためのものという性格があったのだ。そして、この音楽パフォーマンスは、アンサンブルのために個人が集団に完全に従属することが不可欠だったという点でも、新しい現象と言えた。

現代的な意味での指揮、オーケストラの外部にいる聴衆をターゲットにした調和的なサウンドを、その細部に至るまで、すべて指揮者が責任を持つという形態、が定着するためには、演奏家の音楽的な自律性と自主的な活動の権利とが、破壊される必要がある。オーケストラが即興演奏をするミュージシャンで構成されていれば、指揮者の支配はもっと小さなものになるはずだからである。それに、音楽作品が聴かれるために作曲される限り、作曲家の想像と違う音を出すことは許されない。つまり、楽譜に対する絶対の忠実が不可欠になってくるのだ。と同度に、作曲家は、彼の望む演奏を全て音符として書き込まなければならなくなってくる。こうして、作曲家と指揮者による二つの役割が互いに補強しあって、音楽的な表現を細部に至るまで操作し、管理するという、長きにわたる奮闘が始まったのである。

ときどき、そもそも指揮者は必要なのか、と訊く人がいる。オーケストラのミュージシャンは、外部の権威に煩わされることなしに、自分たち自身の演奏を達成できないだろうか。そういう試みは過去にあったが、最終的には失敗に終わった。失敗の要因には、経済的なものもあったし、政治的、それに純粋に芸術的なものもあった。指揮者抜きで納得のいく演奏を作り上げるには、普通のオーケストラのように各々のミュージシャンが自分のパートだけを理解していては追いつけない。彼らの一人ひとりが、パフォーマンス全体のコンセプトとそのなかでの地震の位置づけを理解する必要があるのだ。ミュージシャンはこれを耳で知るだけではなく、肝に銘じておかなければならない。彼らは独立自存できるようにならなければならないし、どんなオーケストラがなしうるよりも、互いに対して多大なコミットメントを持続させねばならない。同様に、指揮者のいないオーケストラは、一つの曲の演奏を完成させるのにも、より多くの時間が必要になる。だが、どんな専門家組織とも同じように、プロ・オーケストラの世界でも、「時は金なり」が現実である。指揮者不在のアンサンブルについての批評は、刺激に欠けていて退屈でさえあるというものだ。アンサンブルの合意によって到達したシンフォニー作品の解釈/演奏

よりも、ひとりの人間の視点から下りてくる解釈の方が、鋭く個性的になるだろうということは、語の定義からも、ほぼ明らかだ。現代的なコンサートの聴衆や批評家、それにクラシックレコードの仕入れ係も、個性的な鋭さとドラマティックな演奏を称賛するようになってきた。概して、演奏に劇的な緊張感があるものほど好まれる傾向にある。指揮者の機能はオーケストラを物理的に調和されることや、演奏を生み出すことだけではないからだ。指揮者は、聴衆として座っている人々の想像力の中心に、英雄的なポジションとして存在する。指揮者の役割とは、オーケストラと聴き手の双方にシンフォニー作品の緊張と対立を味あわせつつ、最後には主調のカデンツァの解決へと導く、パワフルで信頼に足る君主の役割と同じなのだ。彼の存在こそが、近代産業社会の中産階級の人々に緊張と解決の意味を与えるのだ。指揮者こそ近代的な権力の感覚の化身であり、我々の誰もが社会的・政治的な活動の場でそうありたいと思い描く、限りない力を発揮することで対立を一気に解決するというイメージの象徴なのである。シンフォニー・コンサートが少なくとも一部の人々に、これほどまでに大きな満足感を与える「儀礼」であるのは、この意味で当然といえるのかもしれない。

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