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2011年12月21日 (水)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(28)

第10章 関係を表現する音楽のドラマ

小説か演劇か、映画か交響曲かに限らず、過去三百年あまりの間に西洋社会でつくられたすべての物語り行為の背後には、ある大きな物語もしくはメタ物語が横たわっている。それはストーリーを形作ったり、描かれる出来事の本質を示すだけではない。物語の手法そのものをも支配するのだ。それは次のような短い文章にまとめることができる。

秩序が確立される。

秩序が覆される。

秩序が再び確立される。

完璧な秩序には物語を駆り立てる緊張感がないが、最初の秩序が提示されたそのすぐ先には、波乱含みの変化がひっそりと待ち受けている。つまり、最初に提示される秩序が、何らかの形で変化させられなければならないのである。そうでなければ物語が成り立たない。一般的に秩序は次の四つの原理のうち、いずれかの方法によって再確立される。第一に、主人公が不安要素を克服したり退けたりする方法。第二に、主人公が不安に順応したり妥協したりする方法。第三に、主人公が不安と和解する方法。最後に、主人公が敗北するという方法。ここで問題になるのは、読者や観客、そして聴き手が、勝者と敗者のどちらに自らをアイデンティファイさせるか、ということだ。ある秩序とともに始まり、別の秩序とともに終了する。こうして物語は、明確な始まりから明確な終わりに向かって進んでいく。最後に現われる秩序は完璧かつ自足的で、登場人物やかれら同士の関係についても、もはや何も言うべきことが残されていない。エンディングは、演奏が始まったその瞬間から、既に期待されている。どの登場人物も、最初に読者や観客の前に登場した時のパーソナリティのまま振る舞うことらなっている。つまり、ストーリーは作者が考えた筋書き通りに発展することになっている。より厳密に言えば、すべての出来事はストーリーが上手く展開されるように最初から関連付けられているのだ。つまり、登場人物や出来事を効率よく配置することは、大方の読者や観客の好みに応えることなのである。クライマックスや結末の有無も含めて、物語がどう始まり、どうクライマックスを経てどう結末を迎えるのか、という物語の約束事にも、人間の生にとっての秩序の理念が示唆されている。秩序を構成するのが何で、どんな秩序が望ましく、どんな秩序が不安に値し、どんな出来事に意味があり、どんな対立と解決が決定的か、等がそれにあたる。価値観とは、そこで物語れる内容と同じくらいに、物語られる様式自体のなかにも埋め込まれているのだ。

シンフォニーに展開される物語と小説の間には、著しい類似がある。カノン形式やシンフォニー形式といった分類法は、シンフォニーが劇的なものが利として理解されるようになった、ずっと後に出来たものに過ぎない。我々は形式の完成度を味わうために小説を読むのではないし、小説家にしてもそのために書くのではない。同様に、まともな作曲家であれば、自分の作品を「完成された形式」のモデルに合わせようなどと努力するはずがない。そうではなく彼は、自らが紡ぎ出すドラマをもっと効果的にしようと、聴き手の反応を最大限に喚起しようとするはずだ。完璧な形式と呼ばれるものはドラマティックな効果の結果なのであって、原因ではありえない。今日、ソナタ形式と呼ばれているものは、衝突と解決というドラマに対応するために発達してきた物語の技術で成り立っている。楽譜の研究を通じて発達した、ソナタ形式という概念とその分析概念は、限られた範囲では確かに有用性を発揮したものの、概してミュージシャンにある誤解をもたらしたと言える。時間と共に展開する音の出来事を、静止した構造として、あたかも全体を見渡すかのような視点がもたらされたのだ。静的な構造という概念には、永久不変性か少なくとも永続性の含みがある。しかも、いったん音楽作品を構造として見始めると、パフォーマンスの儚さやダイナミズムとは無縁なイメージが喚起されやすい。すると我々も、パフォーマンスのことを、せいぜい作品の本質や意味に付随するものにすぎないか、更には作品と無関係なものとさえ考えるように仕向けられている。もし、多くの音楽学者が真剣に考えているように、音楽作品の喜びが構造の知覚のために起こるのであれば、我々は演奏が終わるまで作品を楽しめないはずだ。というのも、作品の構造を完全に知覚できるのは、演奏の最後の瞬間に限られるからである。この考え方は不条理なばかりか、我々が実際に音楽パフォーマンスを知覚する方法とは絶望的に異なっている。もし作品の喜びが曲の鳴り始めた瞬間からもたらされるのでなければ、誰がその続きまで聞こうと思うだろうか。不思議なことに、まるで西洋のコンサート文化だけが、このことを十分理解していないかのようだ。我々は、音を共時的で通時的な組み合わせとして聴いて、それを心の中で関係として位置付けることで意味を創り出す。ドラマ的な物語は、音の関係から直接に導き出される。構造を知覚しようとすることは抽象へと向かうシフトに他ならないが、楽譜に書かれたものを理解したい人々にとっては、これは間違いなく正当な活動だ。

シンフォニー作品についてのより実りのある理解の仕方は、シンフォニーを壮大なメタ物語、すなわち、秩序が打ち立てられ、それが揺さぶられ、新たな秩序が打ち立てられる物語として把握することだ。たとえ通の連中がソナタ形式だ何だと教えたところで、音楽的に訓練されていない素朴な聴き手がシンフォニーを第一にドラマティックな物語として聴くことには、何の間違いもない。分け我は完全な形式を聴くために、シンフォニーを聴いているのではない。

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