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2011年12月 2日 (金)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(10)

次に浮上する問い、すべての生き物が与えることができ、反応することができなければならないという情報は、一体どんな情報で、そこにはどんな意味があるのか?だ。これに対して、ベイトソンは、コミュニケーションの手段は極めて多様だが、一個の有機体が知らなければならないのは、常に関係についての情報である。例えば「あれは捕食者だろうか?」「獲物だろうか?」「潜在的な求愛者だろうか?」といったものだ。その情報によって、逃げるべきか、攻撃すべきか、求愛すべきか等が決定される。これらに正しい判断を下せることが、どんな生き物にとっても最重要な事柄だということは、言うまでもない。だが、「関係についての知識」は、相対的でしかありえない。ある生き物にとっての求愛の対象は、別の生き物にとっては獲物かもしれないし、また別の生き物にとっては捕食者でもありうる。「求愛者」「子孫」「獲物」「捕食者」というのは生き物の本質ではなく、他者との関係の本質なのだ。知覚する世界が無生物のそれであっても、同じことだ。つまり、生物が外の世界から受け取る最重要の情報とは、常に関係についての情報なのだ。単純な生き物であれば、生存に関わる関係は身の回りの環境にしかないのだから、その外側についての情報を得る必要はない。例えばアメーバにしてみれば、一粒の水滴に必要な情報のすべてが含まれている。より高度で複座な動物になると、関係の範囲がぐっと広く総合的になるし、自分と他者(それに事物)とがどうつながるか、というパターンの理解の仕方が複雑になる。人間の心ともなると、宇宙の全ての関係を包み込むほどの能力、つまりそれらを「結び合わせるパターン」として理解するだけの能力があるかのように見える。

生物としての複雑性が増せば増すほど、関係を表現する身ぶりとそれに対する反応の可能性は、ますます多様で複雑になる。しかし、関係を表現する身ぶりには、その見かけの多用さに関わらず、ある共通した特徴がある。身ぶりには、誰、そして何について言及しているのかが示されない。なぜなら関係の向かう先、即ち関係されるもの、が所与とされているからだ。身ぶりの言語というのは、私とあなたの関係しか表明されず、工程のみが示される、「いま─ここ」のコミュニケーションなのだ。ベイトソンは、関係についてのメッセージが単にやり取りされるだけでは、コミュニケーションは十分に成立しないと指摘する。メッセージを十全に理解するためには、受け取る側の生物が、メッセージの文脈を知る必要があるのだ。ベイトソンはこのようなメッセージについてのメッセージを、メタメッセージと呼んだ。メタメッセージは、芸術や遊びのように、生存価を持たないにも関わらず全人類が最大級の真剣さで実践している活動を理解するのに不可欠である。我々の誰もがこうしたメタメッセージのやりとりと学習に慣れっこになっているが、それは、メタメッセージの認識が他者の行動を解釈する強力な方法だからである。

身ぶりによる言語やメタメッセージと対照的なのが、ヒトに独自に発達したコトバである。コトバは我々に、現にそこにはないものや人について言及したりコミュニケートすることを可能にし、過去や未来、さらにはある出来事や関係を仮定したり想像したりして、あることが「起こる/起こった/起こるかもしれない/起こらなかったら…」などと議論することまでをも可能にした。しかし、生物学的なコミュニケーションに属する身ぶりの言語とは異なり、コトバはものごとについて時系列に沿ってしか表現できないし、かつ一度に一つの事柄しか表現することができない。ここには強みと弱みとがある、コトバが可能にした分析的な能力、段階的な論理、ものごとを計算する能力は、我々人間が、この物理的な世界で支配力を発揮するには欠かせないものだ。しかしコトバには、我々人間同士や人間と世界との出会いにおける、いくつもの非常に複雑な関係を同時に表現したり処理したりする場合にも全く間に合わないという欠点がある。コトバの第二の限界は、我々に世界の諸相がどのように見えるかをコトバで記述しようとしても、そこに空白地帯が残ることである。世界は連続しているのにコトバは不連続なのである。関係もまた連続的であり、自らを一度に一つだけの記述に売り渡すことはできない。我々は世界の結びつきの複雑さのすべてを引き受けて、統一的に理解しなければならないのだが、ここにこそコトバの本当の限界が待ち受けている。一度に一つだけの記述は、関係の多層的で流動的な性質を取り扱うには、時間がかかりすぎるし嵩張りすぎる。関係をコトバで表現しようとする時、我々は記述と現実との間にある落とし穴にはまり込まずにはいられないのだ。

反対に、生物学的なコミュニケーションであり身ぶりの言語は、関係と同じく積極的で、関係の表現にもずっと適している。身ぶりの言語には、語彙もなければ意味の単位もないし、継ぎ目も隙間もない。単語や数字のような量的な何かについてのものではなく、かたち、様式、手触り、すなわちパターン、についての表現なのだ。そしてもちろんパターンは関係によって作り上げられている。ここから、コトバと身ぶりによる言語の、もう一つの違いに気づくことができる。前者ではコトバの音と意味の関係が恣意的なのに対して、後者はそうでないか、すくなくとも完全には恣意的でない。しかし身ぶりの場合、その形やパターンとそこに表現される意味との関連は、恣意的ではない。多くの身ぶりは類像的で、身ぶりそのものの像を意味として運ぶ。たとえば、我々が右手を差し出して握手を求めるしぐさは、その手に武器がないことを示している。この種のコミュニケーションで何かを意味するには、常に何かの関係や関係の情報が利用されている(これが隠喩と呼ばれる過程だ)。そして、身ぶりと意味とは、少なくともある程度までは、互いに類似している。しかし、この類似もある程度までで、身ぶりの言語にも恣意性、もしくは代案的な表示の余地はある。少なくとも高等な生物に関しては、ある身ぶりが多様な関係を一度に意味することもあるし、その反対に、ひとつの関係が多様な身ぶりで表現されることもある。人間は絶え間なく、既存の身ぶりに新たな意味を吹き込み、既存の意味のために新しい身ぶりを発明し続けているが、ここには非決定性、選択制、恣意性が働いていて、それが創造的な発展と綿密な創出の余地を保証しているのだ。事実、コトバにも身ぶりによる言語にも、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフイエ)の完璧な対応関係があるわけではない。意味は、隠喩の力を通して、絶え間なく新たな意味へと滑り込み続ける。そのため、一対一の安定した関係を築こうとする試みは、常に失敗する運命にある。

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