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2011年12月17日 (土)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(23)

インターリュード3 社会的に構築された意味

我々は儀礼において、「結び合わせるパターン」、すなわち心という巨大なパターンとそれを含めた世界に存在するあらゆるものや観念の結びつきのパターンを、十全に経験する。もちろん我々は、この結び合わせるパターンのことを、あたかもモノのように客観的に知ることはできない。知識(のパターン)とは、我々の内的な心の過程と外界との結びつきをいう。そして、知識とは心という過程で行われる能動的な斬り結びの結果であり、それは個人によって、また社会的、文化的集団によって多様である。実際。誰もが、世界や世界に存在する関係を異なった風に理解している。我々はこの世に生まれ落ちた瞬間から、自分たちにとって価値のある関係、覚えておくべき事柄、世界と経験の分類及び秩序付けの方法を、学び続けている。つまり、我々の価値観や世界の把握の仕方は、生まれつきのものではない。外界との一人ひとりの能動的な斬り結びの結果なのだ。これらの知識は経験によって変化するものだが、歳を取るにつれて根本的に変化する可能性は狭まっていく。

どの関係に価値があるかは、経験を通じて学ばれる。従って、理想的な関係についてのイメージが個人間で異なるとしても、一定の経験を共有する社会集団が抱く理想は似通ってくるし、その理想が集団内でさらに強められることもある。それこそが社会集団を定義づけているかもしれない。人間同士の関係や、人間と世界とのつながりについての前提の共有こそが、社会的文化的集団を一つにまとめ上げるのだ。さらに、その集団は自分たちの価値観を後の世代に伝えようとするだろうし、事実全ての社会集団は、公式か非公式かを問わず、そのための制度を備えている。そして、今日の産業社会では学校がその機能を持つ。以上のことは、我々一人ひとりが抱く現実感は客観的でも絶対的でもないということ、社会学者の言い方を借りると、社会的に構築されているということを意味している。リアリティは、学習によって築かれた、世界に存在する諸関係についての前提で構成されている。家族や恋人、組合やクラブのような小規模にものから、帝国や国家のような大規模なものまで、人間の集団は実に多様だが、どの集団もリアリティがもたらす意味なしにはありえない。何をリアルと捉えるかの感覚は、経験や性格の上で唯一無二の個人と、彼/彼女が所属する社会集団の価値観との間の、弁証法的な過程で身につけられるのだ。

そう考えることで我々は、ミュージッキングが社会や自己を定義づけるのにこれほど強力な手段として機能し続け向けている理由も把握できる。というのも、各々の社会集団がもつ価値観(世界のつながりや結び合わせるパターンについての概念)が異なれば、音楽パフォーマンスの場で実演される関係も、異なってくるからである。すべての音楽パフォーマンスは、特定の歴史的状況における特定の社会集団の価値を表現する。そしてどのパフォーマンスも、他に比べてより普遍的だったり絶対的だったりすることはない。どんな集団も、その組織や価値観を変化させるのだから、「特定の歴史的状況」も重要な要素だ。それらが変化すれば、ミュージッキングのスタイルも変化する。これまで見てきたように、コンサートと呼ばれるミュージッキングのスタイルは、西洋産業社会における中産階級の勃興に伴う近代的な現象であり、そこには彼らの価値観が表現されている。他方で、こりミュージッキングが過去の作品を使用しているという事実は、その作品の形式を決定づけた諸関係が、その作品が生まれた時代から現在のオーケストラの組織にまで、持続していることを示している。

音楽パフォーマンスに参加するすべての人は、自分自身に、参加者同士に、周囲のすべての人々に向かって、「これが私たちなのだ」といっているのに等しい。さて、今その「誰か」が、ある社会が社会化されてゆく過程で支配的な立場にいる人々だとしよう。しかも、その「私たち」が彼らの属する社会のその他の集団に対する根本的な優越性を自負しているとしよう。おそらく彼らは、自分たちのミュージッキングの形式こそが最高のものだと考えて、自信をもって、それをその他の人々に押し付けるだろう。そして、自分たち以外のミュージッキングの文化を劣ったものか、せいぜい自分たちの物真似に過ぎないと決めつけるだろう。

しかし同時に、「私たちが何者なのか」は、一人ひとりの「私は何者なのか」という観念によっても成り立っている。我々の誰もが同時にいくつもの社会集団に属しているのだから、どの価値観を採用して、どの関係を理想とするかには、ある程度の選択の余地がある。だから、「私は何者なのか」ということは、そんなに簡単には決められない。パフォーマンスのある文脈で個人が何者であるかは、彼/彼女が何を選択するか、自分自身がどうありたいと想像するかによっても、変わってくる。だから、「私たちは何者であるか」とは、「私たちはどうつながるのか」ということに他ならない。そして、音楽パフォーマンスによって表現される関係は、実在するものというよりは、ミュージッキングの参加者がそうあって欲しいと願う関係なのだ。

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