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2011年12月23日 (金)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(29)

第11章 秩序のヴィジョン

音楽的な表現とそれが表わす身ぶりの対応関係は、字義的というよりは隠喩的なものだから、その試みは部分的にしか達成されてこなかった。だから、どんな種類の芸術的な身ぶりとも同様、音楽的な身ぶりが唯一の単声的な意味しかもたれないという主張はありえない。このことは、一つの物語に対する複数の解釈の可能性や、一つの作品が演奏され聴かれる時に、二つ以上の物語が同時に生じる可能性が、我々に残されていることを意味ずる。このため、音楽作品ではある緊張が生じる。つまり、特定のやり方で配置された音楽的な身ぶりで構成される作品が意図する意味と、特定の機会にその作品を演奏するという全体的な行為(ミュージッキング)の意味との間の緊張のことだ。音楽的語彙の体系化はまた、「音楽」の意味についての問いを立てたりそれに答えようとする際の混乱をもたらした。つまり、彼らが「音楽」という時、それはたいてい音楽作品のことを指すのである。音楽などというモノは、実際には存在しない。私が示唆してきたのは、シンフォニー作品が演奏されるとき、ステージ上では、ある秩序が破壊されて新たな秩序が確立されるという人間関係の変化と発展の物語が表現されているのではないか、ということだ。

実際、いかなる音楽パフォーマンスにも、それが楽譜に基づく音楽かそうでないか、作曲された音楽か即興で演奏される音楽か、意識的に作られ意識的に受け取られる類のパフォーマンスかそうでないかに関わらず、同じことが言える。社会的な存在として(音楽の作曲も演奏も完全に社会的行為である)我々は常に、身体の姿勢と動き、声のイントネーション等を使って、信号のやり取りをしている。そして、それらの信号をやりとりすることそが、他者との関係を確立したり知覚したりする、重要な手段なのだ。我々は自らの身ぶりを部分的にはコントロールできるかもしれないが、誰のコントロールも完ぺきではあり得ない。実際、身ぶりこそが意識的なコントロールの及ばないところで我々自身のことを赤裸々に語る言語だ、とさえいえる。もちろん、我々は作曲する時であれ即興する時であれ、ミュージシャンの作り出す身ぶりがどれほど意識的なのかを実際に知ることはできない。即興するミュージシャンは、演奏中に自らの身ぶりのすべてを意識的にコントロールすることは不可能だという事実を受け入れる。そして彼らは、意識下のガイドに任せてパフォーマンスすることに満足している。しかし、楽譜を見て演奏するミュージシャンは、楽譜に書かれていることのすべてを意識的にコントロールすることを目指しているし、目指さなければならない。楽譜と共に演奏することは、あたかもそんなことが可能かのような幻想を生み出すのだ。その証拠に、ベートーヴェンのノートには、すべてをコントロールしようともがき苦しんだ戦いの痕跡が残っている。だが、いかに心からそれを達成したいと望んだとしても、どんなミュージシャンも、神業的な職人のベートーヴェンやチャイコフスキーでさえも、すべての音楽的な身ぶりを完全にコントロールしたことはなかった。それに自分たちの仕事の意味を完全に理解したという作曲家も、一人もいない。彼らは、西洋コンサート=オペラ音楽文化の全ミュージシャンの頭のなかにあったメロディやリズムの莫大なストックから、自分なりに特定の質や関係を表現しようと、いくつかを選び出したのである。彼らはコトバの言語によって考えていたのであり、自らの芸術的な選択を、言葉を織り込みことなく身ぶりの言語で行ったのである。

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