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2011年12月14日 (水)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(20)

第7章 総譜とパート譜

近代的なコンサート・ホールでの演奏は、常に、楽譜の読み書きと能力に基礎づけられている。この種のパフォーマンスは本来的に、作曲家による指示を演奏家が等しく理解し、それに服従していなければ成り立たない。だから、パフォーマーが自分の演奏を独自に創り上げるというタイプのパフォーマンスは、ここでは起こり得ない。

西洋のコンサート文化では演奏が楽譜に全面的に依存しているが、これは奇妙に両義的で、世界の音楽文化の中でも独特な実践だ。たしかに記譜法は、音楽作品を何世紀にもわたって正確に保存することや、演奏家の学習の高速化や効率化を可能にした。しかし、他方で演奏を書かれたものだけに限定してしまうと、我流の演奏力を衰退させかねない。その結果、コンサートやオペラの一流ソリストでさえ、その全キャリアを懸けても、真に「かれら独自のもの」といえるだけの音楽的な身ぶりにとう達することはできない。実際この状況は、今日の演奏家たちが拠り所とする、楽譜の作成者たる作曲家たちも含めた過去のミュージシャンには、奇妙なこととして受け取られるはずだ。第一に、彼らのような過去のミュージシャンが、楽譜に関心を抱いたかどうかは疑わしい。彼らは、百年後はおろか数世紀にもわたって自分の作品を保存することなどには、ほとんど、むもしくはまったく興味をもっていなかった。彼らが楽譜を利用したのは、自分の作品を様々な場所で演奏するためであって、保存のためではなかった。第二に、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、さらにはその他の大作曲家の誰も、作曲や演奏で、楽譜に全面的に依存などしていなかった。誰もが作曲と演奏の両面で、記譜に基づいたモードと非-記譜のモードの両方に堪能だったし、状況によって二つの間を容易にスイッチできた。彼らのような巨匠が楽譜なしのパフォーマンスで披露したのは、19世紀末までの名のあるミュージシャンであれば当然期待された即興演奏のハイレベル版だった。彼らにとって即興ができないミュージシャンなど、その器用さや楽譜の解釈力のレベルに関わらず、大事な技能が欠落した存在か、さらに悪くいえば、必要な音楽的経験に恵まれない可哀そうな存在だったはずだ。楽譜はもちろん音楽作品ではないし、作品を代表するものですらない。それは演奏を、つまり適切に遂行することで音楽作品と呼ばれる特定の音の組み合わせを割くり出すことを可能にし、しかも好きなだけでその音の組み合わせを繰り返すことを可能にする、コード化された一連の指示書にすぎない。

かといって、音楽作品アイデンティティは、生み出された音の響きにあるのでもない。その一つひとつを取り出してみれば、音は音に過ぎないからだ。音色、ビッチ、強さ、持続、アタック、弱まりといった聴覚的な特徴も、我々に何らかの意味を感じさせるかもしれない。しかしそのどれも、考えつく限りもっとも単純なメロディがもつ意味ほどには、複雑ではあり得ない。音がそうした豊かな意味を持つには、互いに他の音と関係するように配置されなければならない。そうして作り出される音の連なりがいくつか関連付けられて初めてその全体像を結ぶのである。

音を聴くとは、空気の振動が耳に伝わるという、具体的で物理的な出来事の結果。我々の心に聴覚的なイメージ゛が結ばれ、その聴覚的な特徴を知覚する、と言う意味だ。しかし、我々には聴覚的な知覚のあいだにある関係は、聞こえてこない。関係とは物理的な出来事ではなく、心的な出来事である。そして関係は、心の中で作られる。音を言葉で表現しきれないほどに込み入った関係に配置するのも、その関係のパターン、すなわち、メロディ、ハーモニー、リズム、反復、変奏、そしてこれらすべてを巻き込んだ長時間にわたる規則、を生み出したり知覚したりするのも、我々の心である。それに意味を付与することを学ぶのも、我々の心である。関係こそが1時間以上も続く交響曲か、もしくは1分間にも満たない単純な歌かに関わらず、作品のアイデンティティと意味を同定するのだ。すでに見たように、関係を知覚してそれに意味を与えることは、能動的なプロセスである。音の関係から意味を生み出せるだけの準備が出来ていない限り、音楽作品は存在し得ない。このことは、ある人が秩序と意味と美を聴き取るところで、別の人は無秩序と無意味さしか聴き取れない場合もあることからも明らかだ。一つの作品からある一連の意味を聴き取った人が、別の意味を聴き取った人に、その作品について教えることは不可能だし、その逆もまたありえない。もし、音楽作品が、演奏家が奏で、聴き手が聴く、音同士の関係の中に存在するのなら、音楽作品はパフォーマンスのなかでしか存在し得ない、ということになる。作品のアイデンティティや意味がいかなるものであれ、それはミュージッキングによって初めて形を与えられるのだ。作品は、ミュージッキングという活動から切り離すことはできないし、ミュージッキングが行われる最中でしか知り得ない。演奏が終わってからもなお作品が存在するとして、それは演奏を聴いた人の記憶に中にしかありえない。実体としてあるのは、演奏の指示が記された楽譜だけだ。技能のあるミュージシャンであれば、楽譜を見ただけでその演奏がどんなふうに鳴り響くかを思い浮かべられるだろう。しかし、それも想像の上で存在するに過ぎない。考えてみれば、これは他のどんなモノや出来事が想像されたり想起されたりする場合にも当てはまることだ。

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