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2011年12月20日 (火)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(27)

第9章 劇場のわざ

「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」しかし、少なくとも17世紀の初頭以降、音楽を含むすべての西洋の芸術は。劇場、即ち劇作家、役者、そして役者の身ぶりというわざにも憧れてきたのだった。

我々は、他者についての情報や、他者との情報の大部分を、身体による身ぶりのパターンから得ている。我々は殆ど気づかないままに、他者の身体の動きや姿勢、顔の表情、声の調子、抑揚のバターン様式から、その人物と自分との関係を解読しようとしている。れ我は日々、言葉にすることなくそれらをつぶさに観察して、自分と他者との関わり合いについての豊富なニュアンスを見分けて解釈している。と同時に、我々自身も、身ぶりによって周囲にサインを出している。サインにも意識的なものも無意識的なものもあるが、これらを解釈するのは他者である。社会的相互作用の観点からすると、無意識のうちにやりとりされる身ぶりにこそ、我々の本性を知る手がかりがある。そして、他者との関わり方についての最重要な手がかりも、そこにある。役者のわざとは、日常的にほとんど無意識に行われる、身体や声による身ぶりのパターンを巧みに操作することなのだ。

西洋のコンサート音楽も、演劇の状態に憧れる芸術表現の一つに他ならない。ミュージシャンが聴衆に対して表現するのは一連の利関係であり、その表現方法や聴衆の解釈の方法もミュージシャンと聴衆の双方が学習した慣習に基づいている。だとすると、西洋のコンサート音楽の技術的革新の源泉が劇場であり続けていることは、何ら驚くに値しない。モンテベルディ、カッチーニ、ペーリといった音楽家が音楽の合図と身ぶり、すなわち音の関係の語彙を、初めて体系的に発展させた。この音楽的な語彙は、人間同士の関係やそれに伴う感情だけでなく、登場人物の役どころや気質までをも表現できた。それらの音楽による身ぶりや感情が、歌手が演じる登場人物同士の関係が展開していくストーリーのなかに、配置されたのだ。こうして、歌手は役者に、作曲家は劇作家になった。そして、かれらは共働して劇のペース配分やタイミング、緊張と緩和のコントロール、クライマックスと結末への導き方等のテクニック、つまり劇という芸術の核心をマスタへしようと奮闘し始めた。音楽によって身ぶりや感情、すなわち関係、を表現する方法は、劇場風の仕掛けや工夫と共にステージ上で実演されることでますます確立していったし、聴衆もそれを容易に理解するようになった。音楽による身ぶりがシンフォニー音楽という、更に抽象的な劇にも使用されるようになったのは、聴衆がオペラで演じられる劇の意味を完全に理解した後、更に時代が下がってからのことである。機能和声の本格的な発達がオペラの発展と同時に進行したことは間違いない。緊張や欲求不満、欲望や充足、結末を引き延ばして焦らす等の効果を生み出す機能和声は、オペラの目的にぴったりだったからだ。機能和声が展開する時に生じる「喚起─クライマックス─解決」の循環は、性的な興奮と満足の循環に対応している。作曲家はこの音楽的な語彙を存分に利用した。17世紀初頭の音楽的な表現に目新しかったのは、次の二点である。第一に、音楽の身ぶりが身体の動きから分離して、聴き手が着席して不動のままに聴きはじめたということ、第二に、音楽の身ぶりが、特定の感情や気分を伴う身体の動きや声を表現し始めたということである。(音楽が直接に感情や気分を表現するものではない)。音楽の身ぶりが隠喩に表現しようとしたのは、聴衆がそれを聴いてどんな感情や気分を表しているかを認識できるような、身体の動きだった。これを達成するには、演奏の場から距離を置いて、外から眺めるように音楽を組み立てる必要があった。実際、この新しい芸術様式を生み出した巨匠たちは、表現をより完全なものにするために、意識的な努力や意見の交換、論争をしたし、彼らの試みのなかには多くの失敗もあった。

オペラやそれに続くシンフォニー音楽が劇場から学んだのは、緊張や緩和、クライマックスや結末を、ハーモニーの進行を通してコントロールする技術だけではない。オーケストラという一丸となった楽器の音質と音の肌理も劇場の舞台から発生したものだった。オペラのレパートリーが葬送の行進、勝利の行進、祝賀、悲しみと親しみの告白に満ちているように、シンフォニーもそれらの場面で満たされている。そこに登場人物の感情や彼らの性格が、対立、和解、衝突、敗北、勝利の場面に重ねられる。以上の事実から、音の形式という抽象的な美を鑑賞するための「絶対音楽」などというのが、西洋コンサート音楽の文化には実在しないことが分かる。反対に、演奏家としてであれ聴き手としてであれ、シンフォニーの演奏に参加するということは、まるで劇場にいるように、人間同士が生々しく関わり合うドラマに加わるということなのだ。だから、作品が演奏される時に聴き手と演奏家の両方が受け取る劇的な意味は、「音楽外のもの」などでは決してない。反対に、それらこそが作品の音楽的な意味なのだ。そのドラマは音の関係のなかに埋め込まれている。それは余分なものとして片づけられるものでも、本当の音楽的意味にくっついているおまけに過ぎないものでもない。

従って、聴き手がじっと鑑賞することが前提の純粋な器楽曲が、「ドラマティックな表現様式」の成立以後の17世紀初期に初めて発達したということは、単なる偶然ではない。ドラマの表現は、作曲家、演奏家、そして聴き手に、演奏家ら距離を置くことや、音の中に表現されたり、身体化されたりするものを見抜くための、ある種の分析的な心構えを要求する。それにこのドラマ的な様式は、音楽家と完全に別の役割を持ち、表現の本質を見極めようと客観的な態度でいる聴き手の存在を、暗黙の裡に前提としている。当然ながら、表現とは表現する側だけで完結するものではない。つまり、あたかも絵画を眺めるように、聴き手は外部で曲を聴かなければならないのだ。世界中のほとんどのミュージッキングや、ヨーロッパ初期のミュージッキングでは、曲には聴き手を参加させる役割があるが、ここにはそれが欠けている。曲の方が聴き手を観客として遠ざけているのだ。曲が完璧なのだから、聴き手はその演奏に集中する以外に、曲の本質に貢献し得ることはない、というわけだ。近代のコンサート・ホール文化に特殊なのは、聴くこと、それも演奏から完全に切り離された瞑想的な聴取、自体がパフォーマンスの目的になっていることだ。そこでは、演奏行為自体は、もはやミュージッキングの中核をなしていない。演奏は、それ自体に意味や満足が見出しうるものではなく、音楽作品を聴き手に差し出すのに必要な、単なる手段に成り下がってしまった。しかも、一人ひとりの聴き手も孤立して聴いている。ある聴き手が別の聴き手と関わることにも、何の意義も与えられない。今日のコンサート・ホールの演奏では、音楽作品は何をおいてもまず「聴き手」のために存在していることになっている。作品は、演奏家の方に向かってではなく、聴き手のいる外側の方を向いている。重要なのは聴き手に対する影響なのだ。にもかかわらず、聴き手の反応は決して考慮されることはない。かれらは、作品との間に私心を差し挟んだりしない、透明な存在であることが期待されている。

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