無料ブログはココログ

« クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(12) | トップページ | クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(14) »

2011年12月 6日 (火)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(13)

プロのオーケストラ団員に求められる音楽的技術は、疑いなく高い。一流のオーケストラが音をはずすことは稀だし、演奏が崩壊して中断すること等、まずない。だが、他の音楽文化で称賛される即興性や記憶力などの技術は、オーケストラの演奏家にはほとんど役に立たず、衰退の傾向にある。曲の全体を見渡すような長期的な音楽的思考さえ、指揮者の守備範囲と思われている。ステージ上のオーケストラが提示する、没個性的な集団主義の姿は、単なる幻想ではない。普段はいかに個人主義的で、特殊な個性をもった演奏家でも、ステージ上ではまるで指揮者の演奏する楽器かのように、自身を集団演奏の中に埋没させなければならない。

近代的な職業演奏家と近代的なコンサート制度は、必然的にいくつかの通念と一緒になって出現した。これらの通念のすべてが現在では当然視されているが、実際のところ、どれも、音楽パフォーマンスに本質的な要素でも普遍的な要素でもない。第一の通念は、音楽は演奏するためのものだ、というもので、これは二番目の、公共の場で音楽を演奏するのはプロの仕事である、という通念に繋がっている。第三の通念は、音楽の演奏とその聴取専用に使用される、フォーマルなコンサート・ホールの存在であり、第四の通念は、演奏を聴くために聴衆が代金を払ってチケットを買うということである。これらの相互に関連し合った複数の通念が西洋の音楽文化に出現したのは、ようやく19世紀に入ってからのことで、近代的な演奏の専門家が生まれたのもその頃であった。

アマチュア・ミュージシャンの公のステージからの排除は、ミュージッキングに対する人間の態度の、根本的な変化を意味している。つまり、それまでの音楽作品が演奏のために作られてきたのに対して、今や作品は聴くためのものとなり、我々はその作曲と演奏のための専門家を雇うようになったのだ。ついには曲が、パフォーマーに素材を提供するためにではなく、聴き手に衝撃を与えるために書かれるようになった。こうして、聴き手という新たなターゲットが生まれ、そのターゲットに強いインパクトを与えられるほど、良い曲だということになった。

音楽の意味が作品の中だけに秘められているという通念が受け入れられると、次のような態度の変化も、必然的に起こってくる。すなわち、我々は可能な限り完璧な演奏で作品を聴きたいと思い始めるのだ。だが、この種の完璧主義の代償がいかに大きなものかということこそ、しっかり認識される必要がある。その代償とは、完璧主義と一緒になって現われる通念、世の中のほとんどの人間には、音楽パフォーマンスで積極的な役割を果たすだけの能力がない、という通念であり、このために圧倒的多数がミュージシャンの住む音楽の世界から締め出されているという現実である。コンサート・ホールという、二つに切り離された世界にあからさまに象徴されているのは、まさにその分離なのだ。凡人は、専門家によってあてがわれる音楽の消費者になるべく、運命づけられている。彼らは、音楽という商品に金を払うのだが、どんな商品を買うのとも同じで、商品自体に注文をつけることはできない、買うか買わないかの選択しかできないのだ。

このシンフォニー・コンサートという出来事は、二つの世界の住人にとって、まったく別の意味を持っているらしい。その利害関係も、単に違うのではなく、対立する部分すらある。聴衆にとってのコンサートが、偉大な音楽的精神との交流という超越的な体験にまでなり得るのに対して、オーケストラ団員にとってはいつもの退屈な仕事に過ぎないか、場合によってはフラストレーションの溜まる時間にもなりうる。この出来事が祝うのは、調和や合意、親密さではなく、むしろ、金の行き来に支配された社会、人間が生産者と消費者に分離された社会における、非人間的な関係のようにも見える。

« クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(12) | トップページ | クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(14) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(12) | トップページ | クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(14) »