無料ブログはココログ

« クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(17) | トップページ | クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(19) »

2011年12月11日 (日)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(18)

我々はここまで、身ぶりの言語という儀礼の世俗的な側面と、神話の聖なる側面について考察してきた。どちらに重点を置くにせよ、儀礼に参加するということが隠喩的な行動形式に参加することだ、という点に変わりはない。隠喩とは、学校で教わる装飾的な言葉の綾以上のもので、実は、我々が世界について考えて世界を理解するための重要な手段なのだ。隠喩的に考えるとは、身体や感覚器官を通じた確固たる経験を、より抽象的なパターンや概念に投射することである。身体的な感覚を通じて知覚される具体的な関係は、道徳、倫理、社会関係といったより抽象的な関係に匹敵する。政治的な権力ですら、身体の感覚を通じて形作られる。コトバも隠喩を通して放たれる。我々が隠喩と関わらずに話すことは不可能である。我々が抽象的な概念を把握するのに身体経験に依拠している。元の意味から隠喩的な意味に向かって滑り出ていく傾向はあらゆる言語に見出されるという。

結び合わせるパターンという術語も把握しきれないほど広大で複雑な世界に存在するものや観念のつながりを、感覚的かつ経験的に理解するための隠喩である。ここでいうパターンとは、我々が繰り返し知覚する規則や関係の視覚的なイメージのことだ。そして、そのパターン全体や一部分を支配すべく喚起される神性もまた、隠喩的な思考の結果の他ならない。ベイトソンの指摘が正しければ、うまく機能する隠喩やイメージ図式は、一定の複雑さを備えているはずだ。例えば「世界」を意味する「劇場」、「人生」を意味する「パフォーマンス」という隠喩がうまく働くのは、私たちの生活の中に現実に劇場があるから、というだけではない。劇場自体が複雑な構造を備えているためでもある。だから、「世界は舞台」というアイディアを作り上げる時、我々は世界が劇場と同じだと言っているのではなく、劇場の見えやすい部分のなかでも特に直観的に把握できる関係が、あまりに広大で複雑なために全体を直感的に理解すること不可能な、「世界」や「人生」のある側面を理解するのに、有用な場合がある、と言っているのに過ぎない。このような我々は、この上なく複雑な人生の過程のなかから、状況に応じた特定の場面を映し出す隠喩を選び取っているのである。実際のところ隠喩も、儀礼や神話と同様に、関係に関わっている。この三つのどれもが、ある一つの過程の異なる側面なのだ。人間はその過程の中で、物理的で感覚的な経験や世界に内在する身体の経験を利用して、極端なまでに複雑で抽象的な概念を理解する。実際のところ、人間だけでなく、すべての生き物がこれも同じことを行っている。神話は関係の成り立ちを隠喩的に語ったもので、儀礼は隠喩が行為に変化したものだ、把握することができる。というのも、隠喩とは必ずしもコトバ的な過程ではないからだ。むしろ隠喩は、関係を表現する身ぶり、ふるいは生物学的なコミュニケーション言語の次元に属する。言語的な概念にとっての隠喩の働きと、関係にとっての身ぶりの言語の働きは、同じである。儀礼と呼ばれる身ぶりの複雑なパターンは、参加するもの同士の間に繋がりを生み出す。その儀礼では、神話に基づく理想的な人間の繋がりが模倣されるか、あるいは演じられるのだ。儀礼に参加する人々は、複雑なつながりをそのままに経験する。

儀礼に参加するということは、そこで何かを見たり聞いたり、味わったり匂いを嗅いだり、あるいは触ったりということだけを意味するのではない。我々は儀礼において行為する。なかでも、他者と共に何かを実演してみせるという身体的な経験にこそ、儀礼に参加することの意味がある。一人一人が積極的に参加すればするほど、その他の一人一人も行為することに、創造することに、表現することに動機付けられるだろう。それによって我々は儀礼というパフォーマンスにさらなる満足を見出す。我々は、儀礼の場で持続的に行為し、創造し、表現することによってのみ、我々自身が行為、創造、表現に動機付けられる社会を生み出しうるからだ。しかし、その一方で、我々は儀礼に積極的に関わることが、快楽と歓びを我々に齎す理由をよく知っている。なぜなら、そうすることで我々は自身の夢を叶えているからである。このことがミュージッキングとどんな関係にあるのか。答えは単純だ。儀礼とはあらゆるすべての芸術の母に他ならない、ということだ。儀礼も芸術も、生物学的なコミュニケーションとしての、身ぶり的な隠喩なのである。我々の理想的な関係の概念が、確認され、祝われる、その方法が、儀礼や芸術活動のなかに練り上げられているのだ。

« クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(17) | トップページ | クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(19) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(17) | トップページ | クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(19) »