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2011年12月 9日 (金)

クリストファー・モール「ミュージッキング~音楽は〈行為〉である」(16)

第6章 死んだ作曲家たちを呼び起こす

今このコンサートホールには、隔離された、この隔離自体も体験の一部なのだが、二千人もの人々が、互いの関係や世界と自分とのつながりを探求し、確認し、祝うために集まっている。彼らはその関係を単に音として聴くだけではなく、この巨大な空間の全体から感じ取っているのだ。儀式の責任者は指揮者である。彼は、神聖な本(楽譜)に没頭して、あの世から作曲家の霊を呼び起こす、魔術師でありシャーマンなのだ。彼は作曲家が想像した音響的な秩序のヴィジョンを実現して、それをここにいるすべての人に感じてもらうためにそうするのである。このヴィジョンは、単に抽象的な音のパターンとしてではなく、人間同士の関係のパターンのメタファーとしても実現される。コンサートの常連や現代の音楽家が、過去の作曲家に個人的な親近感をおぼえたり、それらの人物や人生に好奇心を抱いてたりしたとしても、何の不思議もない。それに、作曲家の伝記や音楽批評という産業が成り立つのもそういった好奇心のおかげなのだ。今夜、このコンサート・ホールでは、作曲家の価値観と秩序のヴィジョンだけではなく、その人物と人生も呼び起こされる、というわけだ。今夜のコンサートで披露される曲の作曲家の全員がすでに没しているということ、それもホールに集まっている誰もが生まれるずっと前にこの世を去っているということは、奇妙ですらある。ここにいる人のほとんどにとって、偉大な作曲家といえば、故人を意味するほどだ。今生きている作曲家はもちろん、1920年以降にこの世にいたどの作曲家も、過去の作曲家のように、現代の聴き手と演奏家の想像力を支配することはできないでいる。

指揮者のジェスチャーで呼び戻される大作曲家は生身の人間ではない。その時代に生きてその時代に死んだ人物としてのベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーではない。彼らの伝記がその生涯をいくら詳細に描こうと、作品の演奏が彼らを甦らせることはない。ここにやって来るのは、現代を生きる我々の欲求を満たすために、伝記の断片から想像/創造された、神話的な英雄なのだ。その人格や身ぶりも、我々の思い描く人間同士の社会的な秩序によって出来上がっている。それらの群像は、世俗的で現実的な歴史や、日常的な時間に属しているのでは全くない、歴史的な時間の埒外にある、我々の心のなかの過去、つまり神話に属しているのだ。どんな神話も同じで、この神話も、いまを生きる我々の価値観や振る舞い方のモデルとパラダイムを与えている。神話世界の群像が確固たる不変の総譜を残したということは、彼らもまた、神話的な不滅な存在だということを意味する。彼らは今を生きることができない。神話的な英雄であるためには不滅でなければならないし、不滅であるためには死んでいなくてはならないのだ。私は、作曲家をある種の預言者に、総譜を神聖なテクストに、指揮者を司祭に喩えることができると思う。たとえば、司祭と同じく、指揮者は神聖なテクストを解釈する権利を主張し、その解釈を一般民衆に押し付ける。そして時に傲慢という罪を犯し、自分のことを預言者と同等か、場合によってはそれ以上だと錯覚することがある。そして、楽譜の責任者であり解説者である批評家や音楽学者に、手厳しく的確な非難を受けるのだ。これはひとつの喩えに過ぎないが、そこには本質的な類似がある。コンサート・ホールの外観と内部空間には単なる神聖さ以上の何かがある。どうやらここに来る人々は、美しくて耳心地の良い音楽以上の何かを求めているらしい。彼らは、ある儀礼に参列しに来ていて、そこでいわば「永久性」と「確信」とが演じられているように思える。死せる文化的英雄が呼び起こされるのは、彼らが暗号化した音の関係が永久に残り、それらがこれからも不変だということを再確認するためなのだ。

この20年ほどの間、昔ながらのパフォーマンスを再現させようとする、「本物の演奏」ムーヴメントがある。これも、急激に変化する現代社会にあって、永久性と確信とを守ろうとする探究のひとつなのだろう。数ある作品の中で「真正」なヴァージョンを探し出そうとする音楽学者の勤勉な態度は、ユダヤ法典や聖書、コーランを研究する古代文献学者の、文字による証明に取り憑かれた姿や、書き記されたものに対する崇拝、特定の文書に対する何世紀にもわたる議論を、否応なく思い起こさせる。

レパートリーの硬直とオーセンティシティ・ムーヴメントを目の当たりにすると、コンサート業界では均衡状態が達成されていて、時間の流れが止まっているかのように印象を受ける。だがもちろん、そんなことはあり得ない。どの世代の音楽家も聴き手も、かれらなりの価値観でもって文化を作り変えている。だからこそ、作曲家や作品の再評価が不断に続けられるのだし、新たな伝記と批評研究という場で、それぞれの著者たちが、作曲家とその作品の最終的な真実に到達したという確信を得るのだ。またそれゆえに、作品の唯一の正しい演奏法と新たなサウンドのパターンが発見され続け、そこに新しい関係が投影されるのだ。

神話は単なる嘘ではなく、我々が自身に向けて語る、物事の成り立ちについての物語なのだ。従って神話は、それが実際にあったことであれ、想像上のことであれ、「現在」に奉仕するためにこそ、過去の出来事として語られるのだ。実際の歴史がどうだったかは、神話の価値には無関係なことであって、我々が神話に導かれて辿り着く豊かな人生の広がりのなかにこそ、神話の価値があるのだ。最後に、コンサート・ホールで演奏される音楽作品が、実のところ、我々による自身に向けた、自身についての物語なのではないかということ、したがってそれが本質的に神話なのではないかという仮説を提示したい。コンサート・ホールでそのパフォーマンスに参加することによって、我々は、自分たちの望ましいと感じる関係の概念を、探求し、確認し、祝うのだ。

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