無料ブログはココログ

« 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(32) | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(34) »

2012年1月20日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(33)

Ⅳ 時間性の背後にあるもの

もしそうだとすれば、時間の通路は全く失敗であったのか。そうではない。これまでのことは時間が存在そのものの「真理の開示」とは未だなり得ていないことを示しているが、時間が存在そのものの真理への「問の地平」となり得ないことを示してはいない。そしてまさしく、「存在」と「時間」という二つの概念らよってハイデッガーが事実的に示そうとした事柄は、現存在の存在意味としての時間性という地平が、その中に立たるべき究極の存在への問いの地平であるということにあったと考えられる。そして、後に時間論において見るように、時間は古来人間の心のあり方と結びついて考えられたのであり、過去、現在、未来の三相を持つ時間とは、内容的には人間のあり方に基づけられて成立するとされてきたのである。歴史的にも、時間の問題とは、人間のあり方の問題に他ならなかった。

ハイデッガーは、存在そのものを時間の地平から解明することを究極意図とはしながらも、実質的には、存在を問う地平を時間性として、しかも根源的本来的には、現存在の、有限の、死へと先駆する決意的な時間性として、自覚化して来、これこそがその中に立たるべき存在への問いの実存的地平であることを差し当たって示したのであり、ここに、彼の最も本質的な狙いがあったのである。究極目標と、差し当たって遂行されたこととは、混淆されてはならない。そして、後年彼は差し当たっての己の試みが、時間性という存在への問いの地平を示すことにあって、究極の問題には様々な困難が纏綿することに気が付いてゆくと思われる。だからこそ後期は、前名としての時間を超えた、存在そのものの真理を、それそのものの真理において、思索してゆこうとするに到る。存在へと問いでる地平は時間性なのであり、時間性の意味での時間こそが、存在の真理に到る前名なのである。そしてこの意味での時間という地平は、現存在の時間性の世界として、実は極めて深いものを自覚して来たものであり、ここに前期ハイデッガーの探求の意義も潜んでいるのである。

しかし、この際注しなければならないのは、この時間性という存在への問いの地平は、深くは、その中に立たるべき方法的な世界であった、ということである。『存在と時間』は、二重の現存在を秘め、二人のハイデッガーを内蔵していた。この著作は、存在を問う地平の世界という実存の問題を主題に設定することにおいて、一方で、主体的な、その中に立たるべき実存的世界を明らかにするとともに、他方で、その世界を客観的に分析し実存疇として提示するという学的意向をも持っていた。しかし、後者の学的意向は崩れなければならぬ。ハイデッガーは、冷静なWirの立場にあくまでも立って、現存在の存在意味を解き明かすその先に、更に時間の窓から、存在そのもの、壮大な、言ってみれば神学を学的に展開することはできなかった。そこには転回がなければならなかった。ハイデッガーはWirとしては、あくまで、存在の開示ではなくそれへの地平をせいぜい示し得るのみである。そして示し終えた後には、彼は、自ら、現存在として、その地平の中に立ち出で、Wirの立場を棄て、その地平の只中で開示されて来る存在そのものに聴従して行かなければならない。従って、時間性という概念規定を原理として、そこから更にいわば存在の神学を絶対知のような形で客観的に展開するということはできない。時間性が存在への地平であるのは、そういう意味においてではなく、Wirの立場の抛棄を通してその中に実存的に立たるべき世界という意味においてである。それ故、実存疇としての時間性の概念の底には、existenziellな世界が秘められ、それこそが、その中に立って存在へと問い出づるべき地平の世界なのである。時間性は、基本的には、「既往し原成化する到来」という形式的構造をもつが、この形式的原理によって、存在そのものの体系が学的に導出されるというのではない。形式的原理による存在の説明ではなく、時間性はその中に立って存在の開示をなすべき主体的世界なのである。時間性は、その中に、深く具体的な内包世界を秘め、その中に立たるべき現実的地平の世界なのである。

このように見て来れば、『存在と時間』という著作が如何に未完のものであるか、即ち、如何に徹底的に準備の書であり、究極の存在そのものを問おうとしながら、何よりも先ずかく問おうとする運動をそのうちに含む現存在を明らかにし、それを通して、その地平の只中に立とうとする準備の書であったか、が、分るであろう。端的に言えば、ハイデッガーは、現存在の存在分析から時間性を取出し、それを第一原理として、それと連続的に、存在そのもののいわば合理主義的体系的展開を試みようとしたのではなく、そうしたことが不可能であることを知ることによって、ただまさしく、存在への問いの地平を切り拓き、その中に立ち出でようとしたにすぎなかった。問いの地平である現存在は、既にその前と背後で、その意味でその根底で、究極の存在とかかわり合っていたのであり、単に現存在から存在へと一方的に進路を採り、存在を現象学的方法によって、時間の窓から、形而上学的に展開することはできないのであった。ハイデッガーが何よりも先ず目指したのは、ひとえに存在への問いの地平を提示して見せること、これであった。しかしこの地平は、現存在の主体的実存の世界であり、その中に立って存在を問うべきことを要求していたのである。ハイデッガーは、現存在分析と連続的に学的に存在を対象化し規定することを止め、地平を展開し終えた後には、現にこの実存的地平の只中に実孫的に立って存在を開示させようと、その思索の態度を発展進化させてゆく。これが、『存在と時間』の未完の根底に潜む根本の出来事であり、このような意味での当初の計画の挫折と転回は、実は深い主体性への徹底であり、実存に基づく哲学への激しい自己貫徹にほかならないであろう。このような挫折と転回を含んだ実存に基づく存在の探求という態度の中に、ハイデッガー哲学の根本的特質も潜んでいるのである。

« 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(32) | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(34) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(33):

« 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(32) | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(34) »