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2012年1月31日 (火)

リチャード・セネット「不安な経済/漂流する個人」(6)

第2章 才能と<不要とされる不安>

先進国の豊かな経済では職を欲しながらも必要とされない人間が多数存在する。かつては自らの有用性を証明できれば、つまり、教育と特殊技能さえ身につけていれば雇用の機会に恵まれていた。しかし、「技能社会」においては失業者の多くは既に教育を受け、技術を習得した人々である。その失業の理由は、職の海外への安い流失にある。

不要とされる不安

<不要とされる>ことへの不安は、グローバルな労働供託、オートメ化、高齢化の管理という三つの要因から出ている。しかし、三つはそれぞれの外見からは想像もつかないものを内包している。豊かな地域から貧しい地域へと雇用を流出させるグローバルな労働供給は、資本主義では労働力は最も安価な所で調達されるという前提からだろうが、それだけではない。労働力調達には一種の文化的選択と言う要因が働いていて、労働賃金の高い国を離れた雇用は、賃金の低い国々の中でも、熟練技術のある、場合によっては、高度な技術資格をもった労働者が多い地域に流れる。このことが先進国国内に影響を及ぼす。途上国の労働者は先進国の同様の職種の人に比して給与は低いかもしれないが、社会的地位は低いとは言えない。意欲と訓練、すなわち教養を持つからこそ、彼らは雇用者にとって魅力的なのである。競争に敗れた者たちは更なる競争力獲得のために人的資本を増強せねばならないが、そうできる人の数は多くない。海外の競争相手に太刀打ちできないとなれば、かれらはもはや不要となるほかはない。不要とされることへの不安は外国人脅威論と結びつく。脅威論人種的、民族的偏見の蔭に、外国人の方が生存のための自己防衛能力により秀でているのではないかという不安を隠している。グローバライゼーションとはひとつには、人的エネルギー源が移動しているという、そして、先進国の人間でさえ結果手に時代に乗り遅れるかもしれないという感覚のことをさす。

不要とされることへの不安はオートメ化の裏側にも隠れている。かつてのオートメ化は人間の手が機械に取って代わられれば、ホワイトカラーには新たな、そして、より多くの仕事が生まれることが想像できた。しかし、それは50年前の機械的作業しかできない機械なしか当てはまらない。現代の機械はマイクロプロセッサー等によって、あらゆる作業領域の労働力削減に寄与している。人間にはできない速さで計算を行うコンピュータなどのように、他の科学技術は人間を模倣しようとはしない。したがって、機械が人間の手にとって代わるというイメージは正確ではない。人間にはできないような、経済価値のある作業を機械が行えるようになるにつれ、<不要>の幅も拡大している。

海外への雇用流出と真のオートメ化は、すべてではなく一部の職種に影響を与える特殊なケースであった。これに対して高齢化は<不要>の拡大という点から見れば、はるかに広い領域で影響を及ぼしている。これは単に生理的年齢だけでない。スキルの耐用年数から考えれば、年齢と直接かかわるのは才能だ。身につけた技術の耐用年数は短くなる一方だ。技術者は経歴の中で技術の再習得を行わねばならない。ここに労働市場経済が破壊的な形で介入する。高年齢の社員は基本給が高くも社員の再教育は高額な事業でもあるから、若い社員を雇用する方が費用を抑えられる。さらに若者は職場の条件が気に入らなければ抗議するより退職を選ぶ。雇用者にとってみれば若者は人件費が安いばかりか、御しやすい。そうした社会資本主義構造を放棄した企業に見られる若年労働者の才能のみを重用する雇用からは、経験が増すにつれ経験の価値が減ずるという結果が生まれた。

経験が増すのと反比例して経験の価値が減ずると言う公式は、若干軌道修正した今日の経済でも、その深部で現実性を維持したままである。技術の消滅はテクノロジー発展の永続的付随物ともいえる。オートメ化では経験はほとんど意味をなさない。技術の新たな購入の方が、従業員の再教育より安価なのは市場力学からすれば自明のことだ。一度、発展途上国の有能な労働者へ向いた需要は、先進諸国の労働者がみずからの経験をどんなに発揮して見せてもとりもどすことはできない。こうした状況の積み重ねなよって<不要とされる不安>は今生きている多くの人々の生活のなかの動かし難い現実となりつつある。

職人技と能力主義

職人技の包括的定義として、それ自体をうまく行うことを目的として何事かを行うこと。あらゆる分野の職人技には自己鍛錬と自己評価が欠かせない。規範が重要であり、質の追及が目的となっていることが理想である。即物性が強調されたものが職人技である。

このような職人技は「柔軟」な資本主義組織にとっては扱いづらい存在だ。問題は職人技の定義の中で、それ自体を目的として何かを行うという部分で、うまく行うための理解が深まれば深まるほど、やり方が大切になる。短期的取引と常に変化する任務をベースにした組織では、こうした深さは養われない。「柔軟」な組織が恐れるのは、こうした深さだ。

能力主義は「柔軟」な組織に対して別の問題もつきつける。自明とも思われる事実、それは能力判断にはヤーヌスの二つの顔があるということだ。つまり、能力を抽出するのと同時に、無能あるいは能力の欠如を排除する。ビスマルクが初めて着想した社会資本主義では、優秀さによってだけでなく、年功序列によっても活性化されていた。自らの時間を犠牲にし、組織に奉仕する限り、官僚的組織は能力の有無にかかわらず、彼らを見捨てることはなかった。近代社会における、ダイナミックな組織における才能の発見も、社会的包摂の枠組みの中で起こる。ベストの人間に報いるためのテスト、評価、尺度は、エリートレベルに達しない人間をふるい落とすための基礎でもある。ピエール・ブルデューはヤーヌスの顔の習慣を「差異化」と呼んだ。大衆は知らないうちに資格を剥奪されるかハンディを負わされているが、エリートは誰にも見える形で教育、職業、文化組織からそれにふさわしい特権を与えられている。エリートには光を当てる反面、大衆は影の中に落とし込んで隠すのが、差異化の特質であるとブルデューは見た。このような光によって見えてきたのは、むしろ白黒つけがたい複雑な状況である。これには能力主義における発見のされ方、すなわち、才能自体の明確化と定義にかかわる微妙な側面が含まれている。官僚的組織が見ようとしているは、非具体的なものだ。例えば自律的に見える仕事を数値化することはできても、自律的行為の自律性は数値化することができない。職人技に不可欠なのは特別な知識の完全習得と所有である。新しい形の才能は、単一の仕事内容に関わるのでも、仕事内容によって決定されるのでもない。先端企業や「柔軟」な組織は古くからの能力に固執するのではなく、新しい技術を次々学ぶことができる人材を必要としている。ダイナミックな組織は変化し続ける情報や現実を解釈し、それに対応できる能力を重視する。従って、能力主義体系による才能評価には柔らかい中心がある。柔らかい中心は特殊な形で潜在能力という才能に関心を寄せる。ある人間の潜在性は問題から問題へ、また、課題から課題へと器用に渡り歩く能力のことである。

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