無料ブログはココログ

« 高橋洋子「HARMONIUM」 | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(28) »

2012年1月14日 (土)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(27)

2.方法の問題

第二に重要なことは、『存在と時間』で現存在分析から存在へと目指されたときに採られた、その分析の方法ないしは学的体系が、転回した時の、存在の中で現存在を見透し返しそこから存在の開示に向かうというその試みのときには、そのままの形ではもはや用いられ得ないというところに、非常に根本的なこの著作の未完のひいては転回の必然性の原因がある。

現存在分析から存在を目指そうとしたとハイデッガーが採った方法は、言うまでもなく、現象学的方法である。ハイデッガーが目指すものは内容的には存在論であり、しかも現存在分析に基礎を置く、一般的存在論に対する基礎存在論であるが、それは、ただ、現象学としてのみ可能であると考えられているのである。そして、この際、解明の目的である存在への手懸りとなる存在は、人間の自己自身に他ならぬから、この方法は、人間の自己了解を通しての現象学的な存在の透視化、つまり解釈学的現象学とも言われ得るのである。このような学的方法の採択の上に、『存在と時間』では、現存在の存在分析が体系的に学問的に行われ、存在の意味を開示する地平が詳細に展開されたと言わなくてはならない。

ハイデッガーは、後期において、次のような認識を示している。現象学という方法は、本質的には誤りではないが、その見方に纏綿するする現象学的体系や現象学的研究という、その学問的枠組みが、存在の問いにあっては似つかわしくない。このようなことから、現象学的方法の採択とそれの継続不可能というところに、『存在と時間』の挫折の少なくとも重要な一つの原因が潜んでいたと考えられる。その方法に纏わっている学的哲学的な体系化の態度が、存在そのものの解明に不適合であることが言われているのである。『厳密なる学としての哲学』の方法として打樹てられた現象学の方法を汲んだハイデッガーの『存在と時間』における哲学的方法、哲学態度が、究極の存在解明にふさわしからぬことが自覚され、総じてそうした思索では転回を充分に言い述べることができず、旧来の形而上学の言葉の援用を以てそこを切り抜けられなかったところに、『存在と時間』未完の大きな一因が潜んでいると考えられるのである。

Ⅰ 現象と存在そのもの

現存在分析を通して存在そのものに到ろうとする『存在と時間』において、ハイデッガーが現象学的方法を用いたのは、現象学が、本来、差当り匿れたものを次第に顕わならしめてゆくものであり、存在者の蔭に匿れた究極の存在そのものを存在者を手懸りとして顕わならしめてやくのにふさわしかったからである。しかし、ここで先ず第一に注意しなければならないのは、現象学は、だからこそ、存在者の存在を顕わならしめるらにはふさわしいとしても、存在そのものを解き明かすにはふさわしいものではないのではないか、ということである。というのは、現象なるものは、本質的に、何ものかに即して現象するのであり、存在そのものないし存在一般というものは、本来その意味で現象し得ないものだからである。

ハイデッガーは、自己の哲学的探求の主題的対象を、存在者の存在ないし存在一般の意味を明らかにすることだと言っている。ここでの存在者の存在と存在一般とは全く別物ではないが、後者がより根底的なものして見られていることは疑いを容れない。存在者の存在は、存在一般がその存在者において、或いは即して、現象したあり方であり、それは、その存在者に即さないで根本に匿れている存在一般とは異なると見なければならない。そして重要になことは、本質的に現象であるものは存在者の存在であって存在一般ではあり得ない。何故なら現象とは、予め匿れていたものが何かに即して現われて来たとき、それを更に顕わならしめるところに生ずるのであり、存在そのものは、むしろ何ものにも即し得ぬもの、故に何かに即するならば、却って顕わならしめ得なくなるもの、顕わならしめ得るとすれば、それは、もはや、存在者の存在であって存在一般ではない。ハイデッガーは、現存在の存在に、この超越そのものである存在の最も立ち勝った現象化を見るが故に、現存在分析を行うわけだが、その現存在の存在への認識、だからまた、超越論的であり、現象学的真理は超越論的真理であると言う。しかしそれは、現存在という存在者に即している限りであり、その限りでは現象学的真理を作り出し得る。しかし全き超越そのものである存在それ自体に到るとき、この現象化は果たして可能であろうか。甚だ問題的だと言わざるを得ない。

ハイデッガーは後期に到って、存在そのものは、存在者をあらしめる根拠であり、その意味で存在者そのものとして立ち現われるもの、と言っていい。即ち存在はそういう形で顕現して来る。つまり存在者という形で、ないしは存在者の存在者性といった形で。しかし、他方、存在そのものは、まさしく存在そのものとして、存在者ではないが故に、存在者をあらしめることによって、即ち自らは身を匿し、退けてゆかざるをえない。このように、存在は、存在者をあらしめ明らめる面をもつとともに、そのことによってまさしく匿れてしまう無化的な面も同時に含んでいるのである。存在は、存在者として顕現し、それ自身としては匿れるという、必然的運命をもつ。存在は、むしろ、匿れるという形でしか、現われ得ない、現象し得ない、という運命のものである、そういうふうに自らを送って来るものである。これが後期ハイデッガーの存在観の根本を貫く思想である。

ハイデッガーは『存在と時間』では、存在を、予め匿れているが、顕わならしめ、見せしめることのできるものと考えているが、それは、存在を、存在者の存在として、存在者に即して現象するものの面で捉えていたからであり、これに対し、端的に存在そのものへと眼をふかめてゆくとき、彼は、存在を、存在者の形で顕わとなり現象してはいるが、それ自身としては遂に匿れたままに止まらざるを得ぬものとして、見届けてゆくと考えられる。このような存在は、何かに即して現象することがなく、従ってハイデッガーの言う現象学的方法を適用できないであろう。それ故、現存在という存在者の存在分析に現象学的方法が用いられはしたが、究極の存在そのものには、この方法を、連続的に適用できなかったのではないだろうか。そこに、現行の『存在と時間』の連続的な方法上の展開の上に、究極の存在解明を行い得なかった理由が、あるのではないであろうか。

« 高橋洋子「HARMONIUM」 | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(28) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(27):

« 高橋洋子「HARMONIUM」 | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(28) »