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2012年1月29日 (日)

あるIR担当者の雑感(58)~IRにおける真実を考える

先日、オウム真理教の地下鉄サリン事件の犯人たちで最後まで確定していなかった1人の死刑が確定しました。都内の地下鉄の社内にサリンという毒薬をばらまいたという事件で、そのサリンが気化したものを吸って多くの方が亡くなり、重態となり今でも後遺症に悩まれている、という異常な事件でした。このような場合、テレビや新聞の報道で必ず言われることは、犯人は何故このようなことをしたのか真実を話してほしい、という内容のコメントです。この際、多くの場足は被害者か、その遺族の痛切な声として同じようなことが言われます。このような時の「真実」とは何なのか。地下鉄サリン事件のような異常性で注目を集めた事件がおこると、何故このようなことが起きたのか、真実を話すことを犯人に求めるということは過去にもありました。社会学者などがコメントするのは、普段では理解を越えるような異常なことが起こると、人々はあまりに異常なことゆえ理解できないと不安になるので、何らかの納得できる理由を探して、安心を求める、といいます。昔だったら祟りとか。現代では、二通りの大きな傾向があると言います。ひとつは、オウム真理教の人々は異常な人々だったから異常な事件を起こした、という一種の本末転倒の議論です。異常な事件を起こしたから捕まった人たちですが、それはもともと異常な人たちだったからだと結果と原因がさかさまになるのですか、これで責任を全部犯人に押し付けられるので、そうでない人々は普通ということで、オウム以外の人々にとっては安心できるものです。もう一つは、オウムの人々は我々と同じような人々で、何らかの環境の状況からそうせざるを得ないように追い込まれたのだ、という環境のせいにする。これは、それなりに一見筋は通っているようですが、この論理で行けば、我々とオウムの人々との本質的な違いはなく、我々がそうはならないという保証はどこにもないことになり、突き詰めれば、そこで自己との対決を迫られることになります。多分、それなりに納得して安心するために、この両極端の間で妥協して、適当なところで、それなりの言い訳を作り出すということになるのではないか。実際には、このような事件を起こした犯人は、そういうことについて語ることはありません。実際のところ、本人たちも分らないのではないかと、私には思われます。だけど、そこで亡くなったり、大きな傷を負った被害者や遺族は、何らかの納得がないと精神的に不安定な状態から抜け出せないままでいることになるわけです。

ということで、最初の問いてあった、ここでの「真実」というのは、端的に言えば、それぞれの人が納得し安心するための言い訳のようのもの、ということができます。だから、極端なことをいうと真でなくても良くて(この場合の真があるかどうかは不明です)、必要なのは納得できることが最優先ということになると思います。もっとも、納得するためには真らしさは必要でしょうが。

そこで、話は変わりますが、オリンパスの損失隠し事件について、第三者委員会の調査報告書が出ましたが、あそこで示された、何故このような事件が発生したかは、推測で委員の人たちが納得できる理由を作ったという仮説で、さっきいったような委員の人が納得しやすいもの、あるいは、これをマスコミを通じて公開した時に納得させることができそうなもの、いうことになるのではないか。ここで納得させられるということは、人々のニーズにあっていることと、周知の事実から因果関係を強く推測できる範囲内でということになると思いますが。それに加えて、実際に、この件に関わった人々は経営者も含めて、何故やったのかということを説明できないのではないかと、思っています。無理に喋らせれば「そうせざるをえなかった」とかいうことしか喋ることができないのではないか。これは本人が逃げているのではなくて、話すことが何もないからで。

そういう時に、IRは嘘をついてはいけない、以前にも、この投稿で何度も繰り返して言いましたが、IRで真実を述べていく、というのはどのようなことなのか。ということ、やっと本題に入りました。これは、決算データだけを資料に載せるような場合には出てこない問題です。

しかし、これまで上げてきたような事例は、当事者たちにとっては真実かどうかという懐疑が入り込む余地はないものでしょう。つまり、オウムの犯人も、報道も、被害者も、オリンパスの当事者たちも、当人たちにとっては全て真実であり、相手が明らかにしてほしいと思っている真実というのは、自分たちにとっては存在しない、あるいは存在すら分らないものではないのか、と思います。かと言って、客観的な真実というモノそのものが、そもそも存在しえないので、あるのは主観的な思いだけだなどというのではありません。私が現に叩いているキーボードは確かに存在しているし、それは真実であるはずです。(こんなことを言っていると、哲学みたいですが)しかし、それに対して、何らかの評価というのか、意味づけをする場合に、その評価をする人の視点とか価値観とか、もっと掘り下げるとその人の立場とか、そのベースになっている社会的・文化的な条件などといった条件によって左右されるのではないか、と思うのです。ただし、これを追求しすぎると独断論に陥る危険もあるでしょう。例えば、オウムの犯人たちと被害者たちは、絶対に理解し得ないことになってしまいます。

IRの実際に即して考えてみると、決算という一般には客観的な基準に則って導き出された客観性の高い数値で表された企業の業績があります。(数字というと、いかにも客観的であるかのような外観を伴っていますが、実は決算作業というのは細かな評価の積み重ねであり、この評価ということ自体が厳密に客観的といえるか、と問われれば、そうだと断言はできません。ここでは、議論の組立上、一応客観的ということにしておきましょう)これを、決算発表として上場企業の場合は公表します。そして、それを見る投資家は、この数字をただ漫然と眺めるだけではなく、それをもとに投資判断のための評価とか意味づけをしていくわけでしょう。というより、そのために企業の決算発表を見るわけです。ここでの投資家の求めるものというのは、最初に話したオウムの被害者の求める真実にある点から見ると似ているのではないか、私には思えるのです。極論かもしれませんが、オウムの被害者は、何故このようなことになったのか、という過去に対する意味づけあるいは評価です。これに対して、投資家の求めるのは、これから投資をする、あるいは投資を続ける意味づけあるいは評価であるように思います。というこは、オウムの被害者はベクトルが過去に向かっているのにたして、投資家は未来に向かっている、この点では正反対ですが、このベクトルの方向性が違うだけで、あとは同じようなものではないか、かなり乱暴な議論かもしれませんが、と思われるのです。もっと、突っ込んで乱暴な議論を推し進めると、極論ということで受け取っていただきたいのですが、オウムの被害者が納得のできる説明を欲しているのは、ある意味で、自分には何の落ち度もないのに、理不尽な行為の被害に遭ってしまった不条理によって、それまで堅固であった日常の基盤が崩壊してしまったのを、崩壊する以前の状態に戻ることのできるような、意味づけを、例えば、結果的に自分を強く肯定してくれるような「真実」を欲しているのではないか。(これは一面的な議論で、ここでの視点に限定されているものです。全般的にすべてに通じるものではないです)これに通じるように、投資家は自らの投資に対して、意味づけ、もっというとその判断にたいして「それでいいのだ」という後押し、肯定してくれるような「真実」をどこかで欲しているのではないか、ということです。これは、穿った議論であって、簡単には肯定できないかもしれません、しかし、無視もできないと思います。それこそオウムの被害者と犯人との間のすれ違いをIRで起こすことは、何としても避けなければなりません。

では、具体的にどのような場面を考えているか。例えば、今年のような震災があり、タイの洪水で海外の工場が水没被害に遭い、欧州発の金融不安が全世界的に拡大し歴史的な円高が長期にわたって続いている、といった二重三重の試練に見舞われている状況で業績を伸ばすとか、利益を落とさないであげ続けているというのは、企業の体力が強い証拠で、誰の眼にも明らかでしょう。それは業績に現われた利益とか売上の数値が雄弁に語ってくれるはずです。では逆に、業績が落ちてしまっている場合、状況によるものなのか、企業自体の弱体とか戦略の誤りによるものなのか、決算数値からは、なかなか判断ができません。しかし、投資家の側からすれば最も知りたいところでしょう。というのも、この違いというのは、状況が好転した時に業績の回復度合いの違いとなって明白に現われてくるはずだからです。ちょっとだけ抽象的な言い方を許してもらえれば、過去、現在、未来と続く時の流れの中で、過去は既に過ぎ去り確定したものとして、その上に今があり、未来はこれから作るので未確定だというのが、大雑把なところ、一般的な時の流れイメージだと思います。しかし、この過去について、企業の決算数値のようなある程度客観的で、動かし難い、確定的と思えるものもありますが。ここでいう過去の評価のような主観的な過去というのは、現在や未来がどうだということによって変わってくる。もっと言えば作り変えられる。つまり、現今の厳しい状況のなかで企業の業績が厳しいということについて、単なる環境の厳しさが原因しているのか、企業自体に原因があるのか、実際には単純には分けられないのですが、未来の業績回復度合いによって確定してくるということ。つまり、過去の積み重ねから未来゛作られるのではなくて、未来を作ることの副産物として過去が作られることになる。

しかしそれだけではない。ここには、主観的要素が多く入り込んでいるはずです。たとえ、今期の業績が厳しい状況によって落ち込んでしまったとしても、企業がその後の回復を強く意思している場合、その落ち込みは一時的なものとしか見ていないわけです。その場合の落ち込みに対する評価や厳しい環境に対する評価は、その影響に引き摺られた企業に比べ軽微なはずです。おそらく、その場合、企業の視線は外部環境よりも、より多く回復に向けて、自社の事業をいかに回復させていくかに注がれているでしょう。これは極端な場合かもしれませんが、この厳しい環境を契機として企業が経営体制の大胆な改変を図り、それがためにその後の飛躍の体制づくりとなったような場合、その企業にとって厳しい環境は、飛躍の契機ということが「真実」として捉えられる可能性だってあります。

だとすると、IRとして伝えていくことは、その時その時には、決して嘘ではないのかもしれないけれど、後になってみれば「真実」を伝えていない。あるいは「真実」を伝えられたと受け取ってもらえない。というリスクを常に抱えているとも考えられるのです。ただし、それが問われるレベルでの情報発信をしていなければ、そもそもリスクを考えることもないのでしょうが。

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