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2012年1月 9日 (月)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(24)

第3章 存在への問いの地平(1)問題設定の基本的性格

第1節 『存在と時間』の一般的な狙い 実存に基づく存在の哲学

『存在と時間』が根本的に問題としたのは、如何なることであったのか。『存在と時間』が根本的に目指したのは、その冒頭に掲げられた著名な言葉の示す如く、「存在の意味への問いを新たに設定すること」であった。この場合、(ⅰ)存在の、(ⅱ)意味への、(ⅲ)問いを設定する、という、三つの事柄が注意されなくてはならない。

第一に、先ず、我々は、ハイデッガーがここで問題にしているのは、根本的には存在への考究であったということに注意しよう。それは、存在を問うという古くからの形而上学的存在論的意図を以て書かれた著作なのであった。しかし、ここでいう存在とは、単なる存在者でなく、存在者を存在者としてあらしめるその根底の存在であることは勿論だが、更に、究極的には、単なる存在者の存在ではなくて、つまり、存在者の存在哲学といったものではなくて、「存在一般」ないしは「何か存在というようなもの」と言われる、そうした広い意味の存在そのものであったことも忘れてはならない。ハイデッガーは、『存在と時間』では、事実上は、存在者の存在を解明するにとどまっているが、究極的に彼の目指していたのは、到る所で彼が述べているように、「存在一般」というものを明らかにすることであり、「何か存在というようなもの」として我々が根本的に了解しているその存在そのものの意味を解き明かし、捉え返すことなのであった。だが、第二に、そのような存在を追究し、問い出すと言っても、ただ単にそうするのではなく、ハイデッガーは、ここで、その存在一般の「意味」の解明を目指していたのである。「意味」とは「或ることの了解性がその中に保たれているもの」であり、意味が捉えられるためには、人間の側からする、その或ることへの。了解的企投がなければならない。存在の「意味」を問うとは、このように、人間の側から存在へと了解的企投を行い、存在を存在として人間が了解的に保持する、ということである。ということは、その背後に、ハイデッガーの設問の姿勢に、後に触れる人間から存在への問い詰めの可能性、連続性の信念があるということであり、後期ではハイデッガーは、こうした問い詰めの可能性を抛棄し、逆に、存在の「意味」は我々人間から存在へという問い方の方向ではなく、存在から人間へという啓示の方向で、存在の「真理」という形で開示されて来ると考えるようになるが、『存在と時間』では、彼は、存在一般の「意味」を、我々人間の方から捉えようと試みている。一切の存在者がその中に根づいている究極の存在一般、存在そのもの、捉え難い何か存在というようものを、まさしくそのものとして、我々人間の了解的企投を通じて、その本質において的確に捉え、解明しようと、問いを立てるところに、この『存在と時間』の特異な根本的発想があるわけである。だがしかし、第三に、ハイデッガーは、『存在と時間』において実は存在の意味への問いに全面的に答えているのではなく、また答えることを差し当たり目指したのではなく、当面は、先ず、その存在の意味への「問い」に全面的に答えているのではなく、また答えることを差し当たり目指したのではなく、当面は、先ず、その存在の意味への「問いを新たに設定すること」、即ち存在の意味への手懸りを与えて、先ずその問いの正しい「問い方」を設定してみること、言い換えれば、存在一般、何か存在というものの意味が、その中に立つことによって開示され得るような、1つの地平を切り拓いてみること、即ち、「存在一般の意味を解釈するための地平を切り拓くこと」、ここに差し当たりの彼の目標があるのであった。

それでは一体、この存在へと到る地平とは、如何なるものであったのであろうか。ハイデッガーの言うところによると、存在に問いかけ、その意味を問い出すには、予め手懸りが必要であり、それはまさしく存在者以外にはない。何故なら、存在は、差し当たりは、存在者の存在であり、存在者の背後に匿れていて、それをあらしめているのであるから、存在を取出すには、存在者に問いかけることが先ず必要だからである。言い換えれば、存在とは何かと問うことは、かく問うことの先ず一体どういうことなのかという疑問を、予め提出しているのであろう。存在とは何か、ということは、何か、いわば問いはこのようにはね返される。存在を問うに当たっては、先ずその問うということの本質を明らかにし、その構造を見究め、その上に立って問うことが、充分な存在解明には必要であろう。だから、存在を問うには、その問うことを己のうちに含んだ現存在というものの存在様式を明らかにすることが必要である。更にまた、このことは、次のようにも言い得るであろう。一体、存在一般の意味を問おうとするとき、何よりもまずその存在について、朧にではあれ、何らかの了解を持っているものがなくては、そもそもこれを思い出してゆくことさえ不可能であろう。現存在は、何か存在というようなものについての了解をもつことによって、他のあらゆる存在者に存在的に立ち勝った存在者である。それなればこそ、その存在了解に従って存在一般の意味を明らかにする前に、先ずその存在了解そのものは如何なる現存在の存在構造に基づいているのかと、問い直されることになる。存在を問うに当たっては、存在への了解をもつことをその存在構造としている現存在のあり方を先ず明らかにし、ここに手懸りを得てこそ、真の存在解明へと到り着き得るであろう。かくして、ここに、存在への問いの地平が求められなければならないことになるのである。

このようにハイデッガーは、存在という根本問題に接近する方途を、現存在の存在構造の分析ということのうちに求めたのであった。彼は、この現存在の存在を「実存」と呼び、その構造の本質的なあり方を「実存疇」と名づけるが、従ってまさしく彼は、存在への問いの地平を、この実存疇の展開に、即ち現存在の実存疇的分析に、その意味での基礎存在論に求めたのであった。彼はこの分析に解釈学的現象学の方法を用いる。

このような事態を一般的に言い換えれば、ハイデッガーは、存在という根本問題への問いの地平を、実存の中から、新たに立て直した、ということになるであろう。ハイデッガーは、実存という新しい端緒に立って、これを解明しようと、初めて組織的にその試みを展開しようとしたのである。長い伝統を承けた実存概念を、全く新たに立て直し、シェリング、キルケゴールにおける近世的実存概念の先駆を受け継ぎつつ、実存に基づく存在の哲学の試みをここに体系化して打出したところに、この著作の画期的意義がある。そしてハイデッガーは、存在のへの問いを実存の只中で問うことにより、当時のあの昏迷の状況の中で、人々が裸の最後の拠り所としての各自の事実に基づきながら、確固たる支えと存在を求めていたその精神状況全体に、1つの定型化を完成されたのでもあり、同時にそれによって、完全に近世的論理学的問題群を瓦解し、新しい、再建の方向を打ち出し、そうした時代的意義を背後に秘めつつ、古来からの存在の問いを立て、それを全く新しい実存的端緒から問い立てるという、「実存に基づく存在の哲学」の試みを体系化したと言えるのであり、ここに、『存在と時間』の究極の狙いとその意義もあったと見なくてはならならない。

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