無料ブログはココログ

« 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(31) | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(33) »

2012年1月19日 (木)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(32)

Ⅲ 時間と「存在の真理」

ハイデッガーは、古代及びそれ以後の形而上学の存在了解における最も内的な出来事として、ひそかに、時間に基づいて存在を企投するがあったのであり、少なくともこの事柄は、時間に基づいて存在を思索するという、その時間という地平の重要性を事実既に証示しているであろう、と言っている。ここにあるような事例が、事実的には、存在を時間の地平から考察するという方向指示を、ハイデッガーに与えたと見ることができる。だからこそ、ハイデッガーは、改めて存在への問いの超越論的地平としての時間を、『存在と時間』という提題の下に考察し始めたのだと言えるだろう。事実、彼は時間性というものに到達した。ハイデッガーは、『存在と時間』における「存在」とは「時間」が存在の真理の前名として名指されている限りでは時間以外の何物でもない。存在の真理とは、存在の本質的なものも、かくして存在のそのものであるところのものである。と言っている。この言によれば、存在と時間は同じものであり、その意味で、存在は時間として解明され終えたかに見える。

時間が存在の真理への前名であり呼び名であるのは、通常考えられる時間の諸規定によってではなく、時間が「存在者の変化継起に即して経験されるものではない」「まったく別の本質のもの」、「形而上学の時間概念では」「決して思考され得ぬ」、通常の概念を超えた、存在者の次元に属さぬ、その特異な性格によってであることは、明らかであろう。時間は、通常その所謂時間という性格の故に、存在への前名であるのではなく、それが存在者の次元では経験されぬ、存在そのものに帰属する特異なその性格によって、存在への前名なのである。そうだとすれば、前名としての時間によってそんざいそのものへと到ろうとすることは、実は、広く存在者をあらしめている、存在者ではない、根底の存在そのものの真理を、まさしくその真理性において、徹底的に思考しぬくということと同じであって、そのときにはもはや通常の時間概念などは、存在解明の地平としての特別の意味を持たなくなってしまうであろう。もしも時間が存在の真理であるのならば、時間はもはや存在の真理の前名などではなく、端的に、それは、存在の真理の本名であることになる。仮にそうであったとしても、そうした時間とは、「形而上学の時間概念」とは「全く別の本質」を具えた、存在そのものの真理ということと同じである。単なる時間という名称では、この場合どうにもならない。いずれにしても時間は、存在の真理への「前」名であり、しかも存在の真理への前「名」なのである。しかしこのような前名としての時間から存在の真理を考えるということは、存在の真理を、存在者的でない時間から考えるということである。この際重要なのは、存在者的ではないということであって、単なる時間という名称は問題にならないと思われる。即ち時間という前名から存在の真理を考えるとは、存在の真理をまさしくその真理性において、つまり存在者的ではないものとして、かんがえるという、まさにそれだけの意味に他ならないのである。その意味で、時間という概念による存在への問い、存在への真理そのものの中に止揚され、『存在と時間』以来の時間を通しての存在への追究は、今や、存在の真理そのものをそのものとして問う存在の思索へと、発展的に解消して行っていると見なければならない。単なる、通常の、存在者に囚われた時間の概念を以ってしては、もはや問題は、切り拓かれ得ないのである。それ故、問題は、形而上学の概念では捉えられない時間の真相、もしくは存在の真理が如何なるものか、ということにあるわけで、このようにしてハイデッガーは、『存在と時間』以後、この存在の思索を更に突き進めて行ったと思われる。

« 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(31) | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(33) »

ハイデッガー関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(32):

« 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(31) | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(33) »