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2012年1月22日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(36)

このように、スピノザ、ヘーゲルに典型的に示される合理主義的問題設定は、ハイデッガーにとっては採り得ない態度であったそしてその意味からすれば、第二に、ハイデッガーの試みが、合理主義的独断的形而上学を否定し、存在の啓示を学的哲学の形で展開する可能性を拒んだ、カントの態度に非常に接近していることを、容易に知り得るであろう。カントは、物自体について客観的実在性をもった認識は成立し得ないとした。その意味で、存在の啓示の形而上学は、学として、いわば高次の知的直観を介しての合理的展開として、体系化され、哲学的に開陳されることはできないわけである。この点で、カントは、存在そのものの啓示の世界を遂に成立し得ぬものと見、言ってみれば、人間的世界の分析に止まり、その意味でハイデッガーと同じ線上にあると言っていい。存在の啓示を独断的に行わず、存在に到る道を人間的な世界構成の構造分析を通して提示しようとすること、しかもそこに学的哲学の使命を止まらしめようとすること、言い換えれば、人間の先験的な分析を通して、単に存在者の分析ではなく存在者を超えて存在へと到りそこから世界を解釈し理解しようとするその人間の超越を可能にする、そのような意味での人間理性の先験的(超越論的)な分析、つまり、そこからして初めて経験や対象の制約が明らかにされ、世界と言うものが存在論的に開示され構成される、そのような先験的(超越論的)分析を通して、存在の地平を明らかならしめようとする態度、そういうものを、ハイデッガー自身、カントの中に見届けて、カント哲学の新しい基礎存在論的な意義を考えているのである。確かに、その意味で、カントとハイデッガーは、同じ線上にある。しかし、そこにはやはり大きな差があると言わねばならない。第一に、カントは、物自体として存在そのものの世界は、確かに認識の立場では哲学的に展開できぬものではあるが、実践的立場において、実在性を獲得し、構成的となると考えたからである。存在の世界は、神の存在、霊魂の不滅、自由の三者が実践的な立場で真とせられ、構成的となる世界であり、その限りでは、存在の啓示もしくはその実践的認識は可能なのであった。しかし、ハイデッガーは、かかることを考えていない。確かに、ハイデッガーに、存在そのものへと、実存の立場で、主体的にかかわろうとする、ある意味で実践的態度はある。しかし、その存在は、神や不死や自由と言ったものとして認められるのではなく、むしろ、一切の存在者を取り統べながら自らは身を退ける、ひそやかなものにすぎないのであり、しかも、ハイデッガーによれば行動するとは、深くは、詩作的思索をなすことであり、この詩作的思索の中で、ひそやかな存在へと関わろうとするに過ぎないのである。そこには、いわゆる実践的道徳的行為というものは存在しない。その意味でハイデッガーには、カントのように道徳的実践の立場で存在が啓示され得るとする思想はないと言わなくてはからない。第二に、カントは、この存在そのものの世界を、理論的には「未規定的」だとして、実践的にはそれを「規定」しようとするのだが、そのほかにもう一つ、それを「規定可能」にする立場をも考えていた。それがアナロギー的、統制的な反省的判断力による世界観的な思索であり、それによって物自体は、合目的性の原理によって支配される、目的論的な、自然と自由の両者を総合する世界として想定されるのである。理論的にそのようなものとして認識されるのでもなく、また実践的に規定されるのでもなく、つまり人間的な立場に身を置きながら、存在の根源がそのようなものとして、信憑されるのである。これが、カントに残された、いわば最後の存在の啓示の、少なくとも学的な認識の立場であったと言い得よう。ハイデッガーは、ある意味で、このカントの反省的判断力による想定の認識の性格を、一面負わされている。ハイデッガーにおいて、存在の啓示が学として拒まれながら、実存に基づく試作的思索の中で、ひそかに謎としてうたわれてくるとすれば、それは、即ち、カントの反省的判断力の立場の姿を変えた再現に他ならないとも見られ得よう。しかし、なおそこに差異があることを見逃すこともできない。それは、カントでは、存在の世界が主観的にals obとして想定される世界であるのに対し、ハイデッガーでは、主体を空しくした地点で存在が語りかけてくる言葉を捉えてうたうこと、そこにあの詩作的思索が成立するからである。だから、それは目的論の世界ではなく、人間がそこに意味を投げ入れる世界観的領野でなく、人間がその中に投げ込まれた、自然全体の、何故も、どこへも分らない、ただ「四つなるもの」が照り映え、根拠と深淵が交錯する、絶望的な絶対の世界となってしまうのである。

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