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2012年1月15日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(29)

Ⅲ 二重の現存在

ハイデッガーは、『存在と時間』で、存在への問いの地平を現象学的に切り拓いた。現象学的に、とは、現存在という存在者を手懸りとしてその底の匿れた存在の意味を取出し、さらにそこから、存在そのものに到ろうとすることであり、しかもその露呈化が、現存在という人間を中心とし、その人間の自己了解を通して存在に到る地平を概念的に構成し、それを押し拡げることによって存在そのものを意味的に包み込もうとする哲学的態度を潜めたものである。ところで、このような方法的態度は、更に分析してゆくとき、第三に、二重性を孕んでいることが分る。そしてこの二重性の故に、『存在と時間』は、連続的に、方法上の一貫性を以て、最後の存在解明にまで到り得なかったのだと思われる。

というのは、『存在と時間』でハイデッガーが差当り目指した存在への問いの地平とは、存在一般を開示するための一つの条件、その中に立つことによってのみ初めてその開示が可能となり得るような、必要不可欠な前提条件の世界のことに他ならない。何故なら、ハイデッガーの言うところでは、存在そのものの意味が今日不明となっているからこそ、先ずその地平を切り拓こうというのであった。従ってその地平は、単に客観的に分析され拓かれてあるというだけでなく、今日において存在を問おうとするものが、まさしく主体的にその中に身を置いて存在を問うべき世界である、ということに他ならないからである。従ってこの地平は、本来、その中に立たるべき、身を置かるべき世界、そうした主体的な地平であると言わなくてはならない。『存在と時間』で分析された現存在の時間性に基づく実存的世界は、根本的には、かような主体としての現存在のそれでなくてはならない。

しかるにハイデッガーは、『存在と時間』では、この地平の世界の中に立ってはいない、というより、実際にはその地平の中に立ちながら、何故なら、この地平の切り拓きは現存在の自己了解、自己分析、その現象学的解明によってのみ可能なのだから、彼は、現に、その中に立っていたはずだと見なければならないから、なおかつ『存在と時間』を書きつつあるときには、主体としての現存在の実存的世界に、身を置くというよりは、むしろ、半ばそこから身を退け、そうした世界を現象学的に分析し、それを時間性として、学的に論究するという、客観的な立場に身を置いていたと考えられる。現存在の時間性の場の中に主体的に身を置き、そこから存在を問うということより、そうした世界を、取敢えず先ず現象学的に分析し、存在への問いの地平として学的に展開して見せるという、客観的な立場の方が、この著作では濃厚であるといわねばならないであろう。だから、『存在と時間』は、主体的な問題設定においてでなく、「現存在の実存疇的分析」としての現象学的な「基礎存在論」として、学的に、体系的に展開されたのである。ハイデッガーは、主体的な実存的世界を、論究の主題に据えながら、しかし自らは主体的にでなく、そうした世界を客観的に分析提示することの方に、身を置き、それ故に、現象学的方法という露呈化の態度で、この主体的世界が展開されたのであった。このように見てくれば、『存在と時間』におれるハイデッガーには、二重性が潜んでいることが明らかとなろう。即ち一人は、『存在と時間』におけるハイデッガーには、二重性が潜んでいることは明らかとなろう。即ち一人は、『存在と時間』の体系を学的に展開して見せているいわばヘーゲルのWir的な哲学者としてのハイデッガーであり、もう一人は、そこで展開された時間性の場の中に立って存在そのものを問おうとしているハイデッガーである。前者は、実存の世界をいわば外から分析し客観化している人間であり、後者は、その世界の中に立ちそこで主体的に実存している人間である。ほかの言葉でいえば、『存在と時間』の中には、主体としての実存的現存在と、それを客観化し現象学的に提示している現存在との二つが、ある、ということである。しかし、この著作において、学的に分析された実存疇的な現存在に強く力点が置かれ、客観的分析者としてのハイデッガーが全体を纏め上げていることは、この著作の首尾一貫性からして当然であるとはいえ、果たしてこの客観化偏重のみの態度は、全面的に妥当なものであり得たであろうか。むしろこのようなものは、全く暫定的なものだったのではないか。何故なら、本来の目的が、更に究極的に、存在そのものの解明であってみれば、そしてそのためには、この著作で拓かれた地平、とりわけ根源的本来的に地平の中に現実的に踏み入り、主体的に実存として立たねばならないとすれば、ハイデッガーその人は、この地平の諸相を単に客観的に展開することを止め、まことには、その実存の中に入り込み、とりわけ本来性の場に身を置いて、主体的に思索して行かねばならないだろうからである。ハイデッガーは、『存在時間』で、学的に地平を展開したが、更にその先に、実存的にその地平の中に立ち、そこから存在そのものの開示に向かわねばならなかったのである。『存在と時間』が差当り未完のものであることは、ここにも深く現われている。それは、本来、存在そのものの開示を行うべきものであったが、それには到達せず、そこに到る地平を切り拓いたのみであった。しかし、その地平は、本来、実存的にその中に立つべきものであるにもかかわらず、ハイデッガーは、それを、先ず、学的に、外から分析展開したに止まったのである。故に、『存在と時間』で学的に提示された地平の中に、次には主体的に立ち出で、更にそこから、存在を問うのでなければならなかったはずたったのである。

そして重要なことは、現象学的な、客観的、学的、体系的な、外からの露呈化の方法は、この差当っての実存世界の学的分析に対して用いられた方法であるにすぎなかったことである。しかし、本来は、そうした客観的分析に止まらず主体的に地平の中に立たるべきであるとすれば、当然そこでは、現象学的客観化の分析方法は採られ得ないことになるであろう。そこに、『存在と時間』が、その前巻との連続的な方法的展開の途上で、最後まで続行されずに、中途挫折し終わった原因が伏在していると思われる。本来的に存在の開示を行うためには、この著作で分析された地平の中に、主体的実存的に身を置くことが必要であり、そしてそこに身を置き入れるや、実存は、その根底で存在そのものに先行されていたがために、逆にその存在の中で見透し返され、そのように存在の明るみの中に立ち出でながら、存在からの啓示の光を受け止めるのでなければならないこと、それが必然化されてくるのである。言ってみれば、哲学する態度に、深く、主体化のそれが入り込んで来ねばならないのである。ここに現象学的な客観化の方法的態度で構想された『存在と時間』が、中途挫折し、未完に終わった理由があったと思われる。

ハイデッガーでは、もともと、学や認識を、それの成立する実存の場面へ還元しようとする考え方があった。だから、人間存在は、世界の中で様々なものと交渉しつつあり、それが欠如的様相となるとき、理論化が生まれる、としていた。これは、「了解」から「解釈」を経て「言表」が成立して来るとする個所にも、明瞭に示されている。要するにハイデッガーは、学というものの可能性を、現存在のあり方の中へと還元して考えようとするものであった。このように学の根底には常に実存が潜んでいるとするハイデッガーの見解は、実はそのまま、ハイデッガー自身にも、当てはまるのではないだろうか。何故なら、彼は、『存在と時間』という、現象学的体系的著作を展開しているからである。故に、この現象学的体系の根底には、当然、ハイデッガー自身の実存的世界が潜んでいると見ねばならない。彼自身の見解からして、当然そうならざるを得ないのである。ハイデッガーは、現存在は常に世界の許にあって配慮して生存している、しかも常に世界全体への俯瞰をもって、つまり「思慮」をもって、生存しているとする。そこでは、世界は実存に基づいて了解されている。ところが、この世界にある用在者を物在者として茫然と凝視するとき、そこで「配視的配慮から理論的発見への転換」がなされるわけである。こうなると存在者は物在的に見られ、それが世界の許にあった用在性やその占める位置は見失われ、「環境世界の枠の取除き」が行われ、ここに物在者のすべてが主題となることになり、ものを抽象的、学的に見ることができるようになる。すなわち、物在的な存在者を学の領域に区分し分節化していくところに、方法論的な学的設問のパースペクティブが展けてくる。ハイデッガーは、こうした事象領域と根本概念の設定をなす探究企投の方法を、「主題化」という。主題化は客観化し、現成化の性格を持つ。ここに初めて学的探究も可能になると、ハイデッガーはいう。そして彼は、フッサール的な現象学は直観に基づくが、すべて認識は「現成化」にほかならず、従って現象学も、つまりはここに基づいているとしている。『存在と時間』は、現象学的に、現存在を主題化するところに成立した。しかし、かかる現象学的主題化の根底には、その対象への実存的なかかわりあいが既にあるのである。ということは、主題である現存在が対象としてでなく、まさに現存在するものとして実存的に考えられているということである。否、考えられているというのではなく、現存在が、根本的に、実存していたのである。『存在と時間』という学的体系の主題化の中には、根底に実存としての主体的現存在が潜んでいたのである。そして、もしも現象学が先の主題化において成立するとすれば、それは、もはや、根底の、主題化以前の、超越的な現存在には、適用できないことになろう。まさしくハイデッガーは、『存在と時間』を書き終えたとき、現象学という学的方法を捨てるのも、この根底の現存在として実存しようとするからにほかならず、そこから存在を問おうしたからなのであった。

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