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2012年1月 7日 (土)

皆川博子「倒立する塔の殺人」

Hiro 突飛な比較かもしれませんが、皆川博子の小説、例えば『死の泉』なんかを読むと、アガサ・クリスティーとか藤子不二雄といった人たちを連想してしまうことが良くあります。この小説も同じような感想を抱くことになりました。どうして、そんな連想をするのかというと、ここまで追求しながら、最後の最後で読者サービスということを考えて、一般読者にも分かるようにと、無理に話をまとめてしまう。それが取ってつけたようで浮いてしまうことになっている。というように感じられて仕方ないのです。例えば、アガサ・クリスティーは『そして誰もいなくなった』では、ミステリーというカテゴリーを破壊してしまうような実験的な試みを進めて、行き着くところまでいくような極端までいって最後の最後で、ミステリーのカテゴリーに収まるような結末で辻褄をあわせてしまう。エンタティメントの職人といった感じというのでしょうか。実際に、この作品でも、殺人が起こったか起こっていないのかはっきりしていないところでストーリーが展開されるというミステリーは中井英夫の『虚無への供物』で登場人物たちがヒヌマ・マーだーという殺人事件をよってかってお話しとしてでっち上げていくパターンを使っているし、ノートに小説を書き、交換していくプロセスを通じて複数のストーリーをつくり、全体の中で、その作中小説のスペースの方が大きくなって、作中の虚構であるメタストーリーと小説のストーリーである現実の区別があいまいになって行く構成は、ミステリーの倒叙ものの範囲を逸脱し、PKディックのSFを彷彿させるし、戦時中の高等女学校という閉鎖された空間を濃厚に描き、シューマンの流浪の民を合唱してみせたり、ショパンのポロネーズ第4番というあまり一般的でないピアノ曲(英雄ポロネーズでも幻想ポロネーズでも第5番といった比較的有名な曲を外して、ピアノを弾く人ならわかる曲を選択している)や、ヴァルディスの『地獄』という岩波文庫で絶版になった小説といった小道具の散りばめ方はゴシック・ロマンを踏襲しているし、の閉鎖されたような空間の中で、イブとジダラックの2人は、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキンとナターリャ・フィリポバナに対置される、なりよりも、全体のストリーと関係ないところで物語が語られていくので、一般的なミステリーとか小説から、どんどん離れていくようなのだが、最後の最後で、唐突に1人の人物が現れ、彼女が殺人事件の責任を全て負うことで、ミステリーとして大団円を迎えてしまう。取ってつけたような結末に、最後で宙ぶらりんになってしまったような物足りなさを感じたというのが正直なところ。最後の最後まで、行き着くところまでいって収拾がつかなくなって突然打ち切られる、くらいまでやって欲しかった。場合によっては、これまでの小説とは全く違った地平が開ける可能性だって、万が一あったかもしれないのに。と思ったのでした。

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