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2012年1月13日 (金)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(26)

第3節 挫折の原因

ハイデッガー哲学は、存在解明という当初の究極目的から見たとき、それに到る地平の世界を先ず明らかにする部分と、それに基づいて究極の存在解明を行う部分とが、分かれて成立するはずであった。しかし、『存在と時間』では第一の部分を成就したが、第二の部分は未完のまま放置し、前期ハイデッガー哲学は不成功に終わり、中途挫折したと言わねばならない。一般に、このような挫折は「転回(ケーレ)」の名を以て呼ばれているが、存在開示の過程における、かかる転回の介在の点に、実存と存在をめぐるハイデッガー哲学の根本的な特徴が潜んでいると思える。そこで、『存在と時間』の挫折の原因を問わなくてはならない。

1.循環の問題

『存在と時間』挫折の原因として、先ず第一に考えられるのは、この著作の主題設定の根本に潜む循環構造ということである。この著作は、存在そのもの意味の解明を目指して、そり手懸りを、形式的には問いの構造から、内容的には存在了解から、現存在という存在者の存在分析に求めた。存在そのものを問うということは、その問うという存在様相を根本に持つ現存在という存在者のあり方を先ず明らかにすることによって、その準備的地平を開示せしめるであろうし、また、存在そのものを問うには、何らかの形でその存在の了解をもつものがなければならないが、現存在こそそうした存在にかかわることをその根本の存在様式にもつところの存在者なのであり、従って、存在そのものを明らかにするためには、存在了解という存在様式においてある現存在を分析することによって、準備的地平が拓かれ得るであろう。このような理由から、現存在の実存疇的分析が試みられたが、この際、この問題設定には、循環が潜んでいることが指摘され得る。というのは、「存在」一般の意味を解明するために、先ず現存在という存在の「存在」を明らかにし、そこから前者に到ろうとすることは、一方が「存在一般」であるに対し、他方が現存在という「存在者の存在」であるという差異はあるにしても、ともに等しく「何か存在というようなもの」の中に包含される限り、一種の循環証明に似た論点先取の誤謬に類するものが潜伏していると言わねばならないからである。

ハイデッガーは、循環証明はないものの、一種の循環があることは認め、そうした循環は必然の道であり、我々人間の設問そのものに常に潜む不可避のものであり、循環の中に立ち入ることを強調する。つまりは、現存在の存在分析にあっては、既にそこに存在のデータが、朧にではあれ、いわば背後からかかわり合って来ているのであるし、また、現存在の存在分析を通して存在そのものに到ろうとする以上、現存在の存在は、いわば、既に先んじてその前方において、存在そのものにかかわり合わざるを得ないのである。問わるべき究極の存在が、かく問いつつあるときに、時に背後から、また時に前方から、現存在にかかわり合い、襲い来、かくして絡み合って来ることは、避けられない運命なのであり、循環があるとは、まことには、このような意味であり、循環の中に立入っていくことは、この背後と行先の存在そのものを全面的に取入れながら現存在として存在すること、そのことに他ならなんかったのである。

しかしながら、ハイデッガーは『存在と時間』において、この循環構造を全面的に十全化することはできなかった。彼は、背後にある存在も、前方にある存在も、一応考慮の外に追い放って、何より先ず、現存在の存在構造を現象学的に考察し、基礎存在論の体系を構成してしまったのである。このことによって、地平を切り拓くという意味での差し当たりの目標は達成せられたが、循環をその根底に潜めた現存在そのもの、或いは、循環を含んだ現存在に基づいて開示されるべき存在そのもの、現存在の存在構造の背後にありかつ前方にもある、その意味で現存在のまさしく根底に支えとしてある、究極の存在そのものは、極めて不完全にしか、体系の中に取り入れられなかった。現存在の存在様式は、本来究極の存在一般に基づいているはずである。それが特殊的に顕現したのが、現存在の存在様式であるはずだろう。しかるにハイデッガーは、ここでは、我々人間の現存在という存在様式からその根底の存在に到ろうとのみする。しかしその当初の現存在の存在様式が、既にもう、その背後と前方において、即ちその根底において、存在そのものに支えられているとすれば、彼のここで採った方法は片手落ちたるを免れ難いであろう。いずれにしても『存在と時間』には循環構造が根底にあり、それが徹底化されるとき、必然的に「転回」が起きねばならなかった。だからハイデッガーは、『存在と時間』の中でも現存在は、現─存在として、その底に存在を匿しもつものと考えていた。しかも、存在そのものは現存在の先にも求められていた。しかし、この現存在の成立と行先の両面でそれにかかわって来る存在そのものは『存在と時間』では、全くの暗さに閉じ込められていた。存在そのものが少しも明らかにされなかったこと、現存在の運動が浮動してしまったこと、その点で『存在と時間』は全く準備的思索以外の何ものでもないと言っていいであろう。それは循環を十全に満足させていないからである。

当時、ハイデッガーは現存在をあらゆるところで破って侵入して来る存在そのものを全面的に注目するができなかった。彼は、方法的出発点たるにすぎなかった現存在の、被投的企投のその固有の世界にあまりにも固執しすぎた。ということは現存在のもつ世界性に囚われたことを意味する。『存在と時間』全体を蔽う世界内存在というその視野、そこには否み難く世界という生存の場が濃厚に纏綿している。それが彼に循環構造の背後と行先の存在一般というものを見透すことを妨げたのだ。それがその後の現実生活上の体験を通し、世界への志向が挫折するとき、ハイデッガーは現実の世界を離れ、それを更に打ち砕いた根底の存在一般へと見透し得るようになるのではあるまいか。『真理の本質について』では、世界という存在者のひしめく場の中に立つ人間が同時に存在忘却の危険に晒されていることを、自己反省しかつは告白していた。恐らくその頃の己の志向が世界という視野に囚われすぎたことを悟った故の反省であろう。この述懐を期として、世界という視野を離脱するとき、そこに初めて神秘にして空漠、捉え難くしてまた美しい存在という故郷が現われ始めるのである。現実を退いた深い山小屋の風土の中で、初めて彼は己の試行の狭隘さを知り、現存材をその本来の全き姿へと解き放って、存在そのものからの贈与の世界を告知するようになるのである。そのとき初めて深く、『存在と時間』はケーレすることになるであろう。

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