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2012年1月17日 (火)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(31)

Ⅱ テンポラリテート未完の理由

元来ハイデッガーの存在への追究は、取敢えず現存在の存在構造とその存在意味を分析して、存在へと問い出ることのできる、一つの地平を自覚化して見せるということにあり、その方法が、現存在の自己了解を通して、匿れたその地平を、現存在に即しつつ顕わにして来るという解釈的現象学の方法であったことは、既に見た。その際、ハイデッガーは、そのようにして顕わにされた地平を学的に分析し、客観的に定型化して、概念化してみせようとしている。しかもそのやり方は、あくまで現存在の自己了解からその存在構造と意味の概念化を行い、それを顕わにしつつ、更には存在へとそれを拡大し押し拡げようとする方向を採るものであり、どこまでも現存在から存在へという人間中心的態度に根を置くものであった。こうした追究の性格を端的に示すのが、存在の「意味」を解明するという、その「意味」という言葉であること、言ってみれば、存在そのものの解明を、人間の側から企投して行くとき、その企投的了解の根底に潜んでいる根拠を明らかにし、それによって存在了解の構図を画こうということ、それが、存在そのものの意味を問うことに他ならない。ハイデッガーは、現存在の存在意味としての時間性に基づいて、「存在一般の脱自的企投」をテンポラリーの地平において試みようとしたと言っていいであろう。だがしかし、かかる方向は果たしてそのまま完成され得るのか。そうだはない。

すなわち、例えば、時間の地平は、現存在という存在者の存在了解の意味としては、時間性という形で定型化され得る。ここでは人間が己の自己了解を通して、それを捉えることができるのであるから。しかし、その時間性に基づいて、存在そのもののテンポラリーを学的現象学の枠内で解き明かすことは、本来、転回が潜む以上、採り得ぬ態度と言わねばならない。むしろ存在の意味は、それを人間が投げ込んで得られるのではなく、人間がそうした人間中心的な意味の投げ込みを排して、時間性の只中に入って存在の現われに開かれてあるとき、開示されて来るものと言わなければならない。我々は、究極の存在そのものの意味を主観の側から投げ入れたところで、出てくるものは人間的存在の意味であって、存在そのものではあり得ず、存在そのものは、現存在の底にないしはそれを超えてあるものであり、それは、現存在の中に、逆に時間性を通して啓示されてくるものだと言わねばならない。故に、「存在の意味」という如き人間の側からする存在への企投の根拠、人間の投げ込む意味規定によってでなく、むしろ存在は、存在の側からの啓示に開かれて立つときにのみ示される「存在の真理」でなければなるまい。従って、時間という地平から、これを概念的に押し拡げて、学的探求の枠内で、存在そのもののテンポラールな意味規定を与えることは、存在への問いの底に転回があるべき以上、本来、正しい唯一の道ではあり得ないのである。そのようにして達し得られるのは、あくまでも人間的意味付けの中に取り込まれた限りでの存在であり、存在そのものの意味、真理、ではない。ハイデッガーは本来、この存在そのものの真理を開示しようとしていた。とすれば、それに対しては人間的投げ入れの意味規定を排して、ただ存在の啓示を「待つ」ことのみが必要であろう。だからこそ、遂に『存在と時間』は、その時間の地平によって、連続的に、存在論の体系として書かれ得なかったのである。

それならば、時間の地平は全く無駄であったのかというと、そうではない。それは、現存在の存在意味を時間性として取り出したというその点に、そしてその限りで、大きな意義を担っているのである。人間存在が、時間性の「既往し原成化する到来」という有限的歴史的な存在をもつものだということ、まさしくそれを取り出したところに、その意義がある。そしてその地平の中に立ち、そこから存在の啓示を待つというところに、『存在と時間』の書かれなかった背後で起こった事柄がある。啓示を待つということは、もはや、時間の地平を押し拡げて存在の意味を概念的に分析することではない。それは、時間性の地平の只中に立って、存在へと問い、それを見守ることであり、存在の現われを待ち、それに開かれてあること、である。そこに、後期の存在史的思索や試作的思索が成立する。だから、その意味で、存在を問う地平は、まさしく時間性のみであって、それ以外の何かの時間がテンポラリテートだと言っている。有限な死を控えた、現存在の時間性の世界、その中に立つこと、それが存在了解の可能性の究極の条件である限り、こうした時間性が、存在の啓示されて来る場所なのである。

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存在了解にせよ世界内存在にせよ、現存在において現在・過去・未来といった時間の場(ホリツオント)が開かれることによってはじめて可能になる。つまり、現存在において存在という視点の設定が行われるのも生物学的環境を超越して世界が構成され、現存在がそれに開かれるのも、現存在がおのれを時間として展開すること、おのれを時間化することによってはじめて可能になるのである。というよりも、もともと現存在が現存在として存在するということ、つまり人間が人間になるということは、そこに現在・過去・未来という時間の場が開かれるとい... [続きを読む]

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