渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(38)
2.転回の意味と問題点
我々は、更に議論を進めるに先立って、ここでひとまず立ち止まり、転回の意味について改めて考え直すところがなければならない。我々は「ケーレ」という言葉を、レヴィットの所論に従って、ハイデッガーの思索が初期の頃と最近とで大分異なってきているその変化ないと変貌の意味として用いてきた。しかもレヴィットは、ハイデッガーが現存在の立場から存在の立場へ逆転していると主張し、それが矛盾を含む転回であると言うのであった。このような意味で、転回とはハイデッガー自身の思索の中でのある変化と特にそれと名指すもの、即ち、『存在と時間』の頃は現存在から存在への方向が採られるのに対し、後期の立場では存在から現存在への方向が採られ、丁度両者は逆転しているが故に、この変化が転回と名指されたものなのである。だが、もとはと言えば、この転回という言葉は、ハイデッガー自身が用いている用語で、それをいろいろの個所から総合して考えると、実はそれがレヴィットの用いたように意味のものでは元来なかったことが分るのである。
ハイデッガーは1943年の『真理の本質について』の講演の中で、「存在と時間」から「時間と存在」への転回の思索に対して、幾分かの洞察を与えている。まず、転回の意味について指摘している。転回とは、『存在と時間』第一部第三篇で起こるべきはずだったものであり、その意味は、「主観性を抛棄する思索」のことなのである。「主観性を抛棄する思索」とは、言うまでもなく、後期のハイデッガーの存在の真理の思索の立場である。そこで、転回とは、存在の真理の思索の立場へと移ることである。だが、一体、どこから、そこへと移る、のであろうか。ここに問題の分かれ目がある。
第一に考えられるのは、ハイデッガー自身が、『存在と時間』の既刊の部分で示された立場から、存在の真理の立場へと移行し、転回するということである。レヴィットの解釈した転回とはまさしくこの意味であった。ここでの転回問題は、ハイデッガーが自己の思索の転回を認めている以上、それがあるのかないのかが問題であるのではなく、それがどのような意味のものであり、しかして矛盾的なものか或いはそうでないものか、それが問題なのである。しかして、これに答えるためには、単に前期と後期の著作に現われた差異点だけを剔出して比較考証するだけでは不充分であり、ハイデッガー思想の展開と統一性とを改めて全体的に見直すことが必要であろう。
だが、転回と言う言葉の意味は、これだけに尽きない。元来、転回とは、存在の真理へと移ること、即ち「主観性を抛棄する思索」へと移ることであった。従って転回とは、最も正確には、主観性の立場から、それを抛棄する立場へ移ることでなければならないであろう。即ち、近代の主観主義形而上学の立場を克服することこそが、最も本来的な転回と言うことの意味なのである。従って、実は、転回とは、字義通りには、ハイデッガー思想の中での変化ということではなく、言うならば、ヨーロッパの歴史の中で生起すべき哲学的思索そのものの変貌、人間的本質そのものの変転の謂なのである。即ち、主観性の形而上学から存在の真理の立場へ、存在者に立脚する思索から存在の思索へ、総じて西欧の幾世紀にも亘る迷誤の歴史が今まさに克服さるべきであるというその転換の主張が、実は転回ということの本来的な意味なのである。ハイデッガーの著作の数多くの個所に、かのような用法法は夥しく存在しているのである。
かくして、転回という言葉が二義をもつことが注目されなくてはならない。それは、ハイデッガーの思索の中での前期から後期への転回を意味するとともに、本来的には、歴史の中に喚起さるべき形而上学から存在の真理の立場への転回を意味するのである。往々にして転回問題は、第一のハイデッガーの思索の中での転回の意味でしか考えられていないようであるが、これは一面的であり、転回問題は、以上のような、深くは、ヨーロッパ歴史の中に喚起されるべき思索の転回という面をも含んだ、二義的なものであることを、看過してはならないのである。
転回問題の所在点を以下で整理してみよう。第一に、根本的には、転回問題は、存在の真理の立場による西欧伝統的形而上学の克服、従ってまた、人間本質の新しき変貌の課題という問題なのである。これに対しては、その意味が如何なるものであるかが論究されるべきであり、更に、それの現代における意義が究明されねばならないであろう。ハイデッガー哲学の研究は、究極的には、かかるハイデッガー批判の仕事に接続するのであり、ケーレの問題は、深くは、この根本問題に関係している。第二に、転回とは、『存在と時間』の頃の思索と後期の思想とが何らか変貌しているという事実のことであり、この点については、先ず、ハイデッガーの思索全体の展開と統一性が論究され、それがどのように変化して行っているかが見究められねばならない。そしてその次に、この変化が矛盾撞着を含むか否かが、答えられねばならない。そして、更に、この転回問題解決の鍵が、ハイデッガーの思索の方法論上、哲学態度上の面にあることが、予測されているのである。こうした点から、このケーレの原因が深く見究められねばならないであろう。これは、『存在と時間』という著作の根本的性格への深い洞察を要求し、ハイデッガー哲学前期の問題設定への批判的解明を必然的に要請している。このように見て来れば、転回問題の解決が、非常に広い問題領域に亘り、ハイデッガー哲学全体への考察を要求していることは明らかであろう。第一の歴史の中に喚起されるべき転回とは、ハイデッガー哲学がそこに行きついた究極の思想であり、この問題については、我々は、この論述全体で、その内的構成において解明し、後に結論の部分で、批判的に論究するであろう。第二のハイデッガーの思索の中での転回については、先ず、彼の全体的思索展開の様相に即して、その内的構成を、我々は、この論述全体で問題にしているから、この論述全体がそれに答えているとも言えるのであり、しかも我々は、既に第一章で見たように、ハイデッガー哲学を発展的にしかも本質的に統一あるものと見ようとし、かつまた見得ると考え、いわゆる転回は、やはり立場の変更ではなく、哲学態度の方法論的変化であると見、この思索の推移発展を、この論述全体で、必然的なものとして明らかにしていくであろう。
これで第3章は終わりです。第4章はしばらくお休みしてから、また、まとめてUPします。
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