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2012年1月15日 (日)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(28)

Ⅱ 人間の側からの概念構成の拡大

現象学的方法は、存在者に即して現れて来るような存在についてのみ運用でき、何ものにも即さない存在そのもの、存在一般に適用し得るか否かには問題があった。このような事態の背景には、更に第二に、一つの特異な哲学的態度が潜んでいて、それがために、現存在分析に用いられた現象学的方法は、根本的に、哲学態度として排棄され、転換されてゆかねばならず、そこに『存在と時間』が方法的に未完に終わり、転回を介した後期思想が登場せざるを得ない理由があっさた、と思われる。というのは、現存在の存在の現象学的分析を通して存在そのものに到ろうとすることは、言い換えれば、人間の自己了解を能う限り徹底的に露呈化させ、そこで顕わならしめたものを概念的論理的に定型化して、明証な認識世界を構成し、それを押し広げることによって、存在に到ろうとすることにほかならない。このことは、『存在と時間』において、ハイデッガーが、存在の意味を問うのだとしている点に、明らかである。これは、人間が存在の方へとできるだけ認識範囲を拡大して、了解的企投を押し拡げ、その本質を発き出し、それを概念的に定型化して把捉してゆくところに、存在の意味の解明が可能になって来るのである。従って、この現象学的方法の採択の底には、人間の側からする概念構成の拡大によって存在の意味を了解の中に保持しようとする、一種の人間中心主義的な哲学態度が潜んでいると言っていいであろう。

ところが、前に触れた主題の側での転回が必然となるとすると、このような人間中心的な哲学態度は採り得なくなる。何故なら、現存在の存在の自己了解的な分析でなく、むしろ逆に、存在そのものの中で現存在としてある自己を見透し返すことが行われなければ、まことには、あの存在の問いに潜む循環を全うし得ないものであったからである。この場合、存在の中で現存在としてある自己を見透し返すということは、別言すれば、明証的な人間認識を構成し、それを世界の側に押し拡げてゆくのではなく、いわば存在の開示の中で、自己了解を達成するということであろう。即ち、人間からの認識構成でなく、存在からの語りかけを待つという態度である。勿論その場合、存在そのものの開示された世界の中に立ちつつも、なおそこで現存在が、その開示を受け止める、聴取する、ということがなければならないであろう。それは存在の開示の中で、匿れつつ現われる、近くして遠き、その仄かな光を、端的な言葉の中で受け止める、詩作的思索以外にはないであろう。言わば、存在の黙示録であり、存在の謎のうたでなければならない。

このようにして、『存在と時間』で採られた当初の人間中心的な現象学という学的方法は、排棄されなければならないことになる。

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