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2012年1月11日 (水)

渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(25)

第2節 未完の事実の問題

『存在と時間』は、存在一般の意味の解明を究極の目的としながらも、事実上は、その解明の予備的地平を明らかにするところに、「その差し当たっての目標」をもち、また現にそれだけのことをしか成就していない。しかしそれは、究極的には、あくまで、存在一般の意味を解明することを目指していた。このことは、『存在と時間』に記されたプログラムからも窺える。そこには二つの課題が掲げられていた。第一に、先に記した問いの構造及び存在了解の事態から、存在一般の意味を解明するために、現存在の存在分析が志され、それが先ず準備的に日常性に即して分析され、次いで更に深く全体的本来的に考察されてその意味が時間性として証示される。(それが第一部「時間性に基づく現存在解釈及び存在への問いの超越論的地平としての時間の解明」の第一篇「現存財の予備的基礎分析」と第二編「現存在と時間性」の章で、これだけが公刊されるに止まった。)この分析を通して更に、現存在の存在意味としての時間性に基づいて、存在一般の意味を開示し得る地平としての時間にまで、到らねばならない。その時間の地平からこそ、存在そのものの意味を捉えることが必要である。『存在と時間』は、究極的には、存在一般の意味の解明を目指し、存在そのものの時間的意味規定を、実存分析を通して更にその先に、連続的に達成され得る目標として立てていたことは、これらの点から疑い得ないが、しかし、事実上、この部分は、遂に書かれなかったのである。更に第二に、ハイデッガーの意見では、あらゆる探究は現存在の可能性の一つであり、現存在が歴史的であるから、それ自身も歴史的であらざるを得ない。存在への問いは、問う存在が歴史的である以上、歴史的な性格を免れ難く、それは、一つの伝統を背後に控えその中で発せられた歴史的発問であり、しかして伝統は多く源泉から離れその生命を失っているから、存在の意味への問いは、過去の誤れる試みを取毀しつつ、伝統の中に自らを定着させねばならない。言ってみれば、存在一般の意味の捕捉は、先に掲げた第一の現存在分析の課題を通して体系的に試みられながら、同時に、ここで示されるような、歴史的系譜の中に定着してその試みの必然性と方向づけを歴史的に証示するという仕方においてなされ、両者相まつところに、充分な成果を期待し得るというわけである。これらをハイデッガーは『存在と時間』の第二部「テンボラリテートの問題構成の手引による存在論の歴史の現象学的破壊の綱要」としてプログラムに立てたのであった。しかし、この部分の試みは、体系的には、遂に成し遂げられなかった。

しかし、ここで重要なのは、第一の課題の未完ということである。何故なら第二の課題は、歴史的に、ハイデッガーの志す存在の意味への問いを定着化させるということ、伝統を破壊しつつ同時に生かし返し、それを取り戻して、自らの存在の意味への問いの歴史的定着化を図るということ、であり、それは、存在そのもの意味の解明という第一の積極的な体系的目標に裏打ちされてこそ、初めて有意義となってくるものにすぎないからである。勿論、ハイデッガー自身も語るように、二つの議題は密接な関係にあり、切り離せない。

このように本来の試みが未完であったということ、これは一体如何なることなのだろうか。実存に基づいて存在の意味を解明するという理念に支えられて試みられた『存在と時間』の既刊の部分を、中途挫折したままに止め、勿論だからといってそれを全くの誤謬として排棄するのではなく、それを必要不可欠の道として是認するという留保の上に立ってではあるが、それとの連続的な繋がりの上において、存在解明は遂に成し得ないと承認する限りにおいて、それを未完と挫折のままに中断させるということである。存在解明の課題は、単に困難なるが故に成就されないのではなく、もはや、そこで試みられた実存部分との連続的な繋がりの上において遂行することは、原理的に不可能だ、というのである。このことは、実存に基づいて存在を問い糺そうとしたハイデッガー前期の思索について、一つの根本的な問題性を孕んでいる事柄と見ねばならない。

少なくともハイデッガーは、『存在と時間』で試み目指したことを、全く抛棄したとは考えられない。幾つかの思索の方向変化はあったとしても、ハイデッガーは後期において、残された存在そのものの解明に深まって行ったと見なくてはならない。ところで、その際、彼は、『存在と時間』で目指された背後の存在そのものについての朧な思索を、その後進めるうちに、或る種の進路の変更を、─立場の変更ではないが、一つの「転回」を─、経験せざるを得なくなったのではないであろうか。即ち、『存在と時間』で試みられた現存在分析のやり方では、究極の目標に達し得ない、しかしなお、それだからといって、この現存在からする試みが無用であったのではなく、実は、そうしたやり方では、目標に到達できず、方向を変えざるを得ないということが、その試みの根底に潜んでいたのに気が付いたのだと考えられる。そして、事実、現存在分析は無用であるのではなく、一度そうした試みをなし遂げた後に、そこから転回すべき、より深い思索の進展の糸口が開けてきたのである。

『存在と時間』は、最終的には、存在そのものの解明を目指しながら、差し当たり、実存からという「一つの道」を行くとき、その背後で、存在そのものが朧にではあれ徐々に明らかとなり、しかも、当初の如き方法を以てしては開示され得ない本質を持つものとして、ないしは、人間からの意味捕捉といった人間中心的態度によっては把握されないところにその究極の真理を持つものとして、次第に明らかとなり、このようにして当初の試みは中途挫折し、未完のままに止まり、もしくは未完に止まらざるを得ないとされ、その存在に到る道を、『存在と時間』におけるような形でなしに、存在そのものに開かれて立つという方向に求め、その体験に基づいて、後期における如き存在の真理の立場へと転回がなされたこと、これらのことが、推定されざるを得ないのである。このような、存在そのものの真相をめぐっての、語られざる、背後に秘められた、挫折と齟齬を含んだ、複雑な思索的接近の努力と過程こそ、この著作の未完の事実の背後に伏在する根本的な事態なのである。そして、こういう問題は、実存に基づいて存在を解明しようとしたハイデッガーの全思索の根本的問題であることは、もはや喋々するまでもないことであろう。

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