無料ブログはココログ

« 皆川博子「倒立する塔の殺人」 | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(24) »

2012年1月 8日 (日)

あるIR担当者の雑感(57)~ブラックボックスから逃れられるか?

東日本大震災で被災した工場の中で、“ホンモノ”の技術者を求める声が、そこかしこで囁かれたということを聞きました。最近の工場は、生産工程のオートメーション化が進んでいます。以前なら熟練した技能者の職人技で加工されていた工程が、コンピュータ制御の自動化機械に取って代わられ、生産ラインは効率化されたといいます。そこへ、今回の震災でした。生産機械は壊れ、あるいは故障したりと、生産ラインは動かなくなりました。そこで、少しでも早く生産を再開させるためには、機械の修理や入れ替えが一刻も早く必要になります。しかし、交通は遮断され生産機械メーカーのサービスマンにも来てもらえない。となると、自前で修理するとか、代替の方法でなんとかしなくてはならない。そんな時に、現場の生産技術者や設備技術者たちが臨機応変に生産ラインを立ち上げたり、修理することができない工場が多かったといいます。というのも、現場の技術者たちが主にやっていたのは機械のオペレーションで、生産機械を修理したり、そもそも、どのような仕組みで動いているのかも分からなかったというケースが、ままあったといいます。もう一歩進んで、その工場で生産している仕組みがわかって工程で何が求められていて、それをどのような機械で担われているのかというのが観念でなくて、実際に分っているという技術者が少なかった。だから、一部の機械が動かなくなった場合、生産ラインの本質を理解して別の手立てを考え工夫して、なんとかラインを動かすという発想すらなかった。喩えあっても、実際に稼働できるラインを組み立てることができなかった。もちろん、工場ですから1人の技術者だけが分かっていたのではだめで、チームで動けるような体制が作れないと実際には難しいのでしょうが。これは、震災がない場合でも、目の前で稼働している生産ラインに対して現場の技術者が一歩踏み込んで改善とか、そういうことがされていなかったのだろうということが、想像できます。動いていた機械がブラックボックスのようになって、現場では機械そのものをいじることはなくて、機械の組み合わせとか、レイアウトなどを考えてみるのが精一杯だったのではないか。

それは、同じようなことはCADを使って自動化された設計などにも言えることで、部分の設計はパターンが登録されているため機械がやってくれているので、その組み合わせで設計されていくと、その部分を取り出せば効率的なものが、全体として部分を組み合わせると却って非効率になるが、それに気が付かなないケースがあると言います。それは、その各部分がどのようにできているかを知ることもなく、一種のブラックボックスのようになって、それを組み合わせるしか考えなくなる。

そして、話は変わりますが、最近、IR用のホームページを自分でツールを使いながら、試行錯誤を繰り返してもむコツコツ手作りで作成作業をしています。ほとんどの会社では、専門業者に作成を外注しているのではないかと思います。そこで、実際にホームページの作成を自分なりにやっているうちに、意外なほどホームページの作成には機能上の限定が多いことが分かりました。私が未だ慣れていないので制約を感じるのは仕方がない点は除いても、その制約を考慮した上で。ホームページ掲載の原稿を考え、内容を吟味していく作業していくうちに、ホームページというものに独自の考え方で原稿を作成しなくてはならないことを実感として考えさせられたわけです。記号でいうシニフィエとシニフィアンという抽象概念を持ち出すまでもないことですが、表現というものは、伝えたいことがあるから、伝える手段を考えるという方向とは逆に、伝える手段があるから伝えるものができるという方向もある、ということです。例えば、悲しんでいることを伝える手段として涙というものがありますが、逆に涙を見せると悲しんでいると思われる。さらに、涙を流しているうちに悲しい気持ちになってくるような場合です。もらい泣きというのは典型例でしょう。

実際の場で、例えば、どのようなことがあるかというと、企業の事業上の施策というのは社内の複数の部署が協力し重層的な動きをする、実は輻輳した動きなのです。それを口頭で説明しようとしたり、紙の資料で説明しようとすると一面的で一つの流れしか説明できません。そこでどうしても中心となる主流の動きを一本流れであるかのように説明せざるを得なくなります。聴く側も単一のストーリーに還元されるので聞き易く、理解しやすくなります。しかし、ホームページではページリンクという機能を駆使することで輻輳した重層的な施策の各部署の動きをダイナミックに表わすことばできるかもしれないことに気が付きました。見る人は縦横に張り巡らされたリンクをその都度フォローすることで立体的な動きを複数の切り口から見ることができる可能性があります。

これを色々な会社のIRのホームページを参考に見てみましたが、事業の説明や施策の説明で試みられている例は見つけられませんでした。私は初心者なので、考えていることが荒唐無稽なのかもしれません。しかし、初心者が考えつくことは、月並みのパターンではあると思うので、それが試みられなかったか、検討されなかったことはないと思います。多分、そのような試みが結果として見られていないのは、事業の内実を分ったIR担当者はホームページを作るという作業を実際にやらず、ホームページの製作の専門家に委ね、その専門家はホームページの特徴を知悉していても企業の事業に精通していないため、そのような発想で出てこないのではないか。IR担当者にとってはホームページというブラックボックスに手を突っ込むことをしないでいるために、その本質に気が付かないでいるのではないかと考えられるのです。だから、今、お手本がない状況で、どうしようか工夫しながら試行錯誤しているわけです。この工夫というのは、ホームページとはどのようなことができるのか、ということと企業を投資家に伝えるというが何が伝えられるのか、という言うならば本質的な点に考えが及ぶことを避けられない工夫であるわけです。

そして、話はさらに進み、多少風呂敷を広げますが、このようなことはホームページというようなIR業務の常識から見れば末節のことだけでなく、もっと本丸に近い部分ではあるのではないかと思うのです。例えば、決算の結果については経理担当部署から数字を受け取り、そのまま公開しているでしょう。それは別に悪いことというつもりはありません。しかし、経理の決算作業というのは機械的な作業だけではなくて、その中には細かな判断作業で積み重ねられた部分があります。もしかしたら、その部分に企業の特徴的な個性が反映しているかもしれません。その個性が、実は同業他社とは違った決算結果に結実していると言えないとも限りません。また、業績の見方に対しても、必ず経営者の視点(バイアス)がかかっているはずです。経理担当者は客観的にやっているつもりでも、経営管理の会計の視点から経営者の姿勢に適合しやすい作業をしてしまいがちです。別に、恣意的というのではなく、日頃の判断が経営姿勢に添った傾向になりがちなことはあり得ることです。実際に出てくる数字に変わりはないかもしれませんが。それを結果として出てくる数字だけを、背景を切り捨てて鵜呑みにすることを繰り返していてもいいのか、ということも考えてもいいのではないかと思います。多分、こんなことを書くと実際のIR担当者からは、経理の数字にケチをつけるのかと誤解されそうですが、仮に経営者だったら、経理から望まない数字が出たら、極端な場合には再計算を指示することだってあるかもしれないわけで、経営には聖域はないはずなのです。ただ、実務上は協力関係が大切なので、敢えてカドが立つようなことはしないでしょうが。

で、話は最初のところに戻りますが、“ホンモノ”の技術者が求められた被災企業と同じように、いや、それ以上に“ホンモノ”のIR担当者というのも、あるのではないか。現時点では企業で求められていないかも、しれないけれど、この業務に従事しているものとして、追求してみてもいいのではないか、と思っています。

時期が、正月ということあるので、何か、それっぽい話となってしまいました。

« 皆川博子「倒立する塔の殺人」 | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(24) »

あるIR担当者の雑感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 皆川博子「倒立する塔の殺人」 | トップページ | 渡辺二郎「ハイデッガーの実存思想」(24) »